内田樹さんが「論争はしない」と宣言していることになるほどと思います。これまでも、わたしは「論争」にはこりごりしていました。例えば、2002年の
こんな事件です。ほんとにめんどうなことです。
今回も残念な結果になってしまいました。他人から見れば水掛け論です。なんら論争にも何にもなっていない理論的にも意義のないやりとりですが、日本の思想に関心ある方には、この日本的なやりとりが反面教師として参考になると思います。
140字のTwitterで書いた感想について、その内容にとどまらず、わたしの人格の批評までしてくださいました。文字づらの論争のことばの激しさから、わたしのことが誤解されたら困るので説明責任として、この記事を残しておきます。東百道さんも自らのブログのコメントで
打ち切り宣言をしましたので、わたしもこれで打ち切りです。
ちなみに、この記事は、東氏のブログへのコメントとしてでなく、わたし自身のブログに書いて保存することにします。そのほうが、東氏の誇りを傷つけることが少ないだろうと思うからです。こんな文章を書くのは、正直言って、面倒なことで、何ら朗読の理論にとっても実践にとっても意味のないことです。
*
わたしが聞いたのは、6月28日(土)調布市で開催された「東百道・講演と朗読の会」である。当日、東氏は、前半に講演、後半に「黄金風景」と「高瀬舟」の2作品の朗読をした。朗読についての感想は、2作品に共通するものだが、「黄金風景」の朗読は前半の解説を実践したものと受け止めている。
まず、2013年6月30日に、わたしは Twitter に下記のような感想を書いた。前半は東氏の理論の理解のしかた、後半は2作品の朗読についての感想である。
●「東百道氏の講演と朗読を聴いた。作品を作者の言葉と解釈して、黙読でのイメージを朗読に直結させる理論だ。作者の伝記からの作品解釈に重点がある。実際の朗読にも理論に欠ける点がそのまま出た。問題点を列挙する。姿勢、発声、アクセント、イントネーション、プロミネンス、語り構造、語り口と感情」
これに対して、東氏は「他人への論評は逆に当人の足元を露(あらわ)にする」という積極的な意気込みのあるタイトルをつけて、前半・後半と2回、反論の記事を書いた。(内容に関心ある方は、下記のサイトを参照。お互いのコメントも書かれている)
前半
http://nipponroudokukan.txt-nifty.com/blog/2013/07/post-866c.html
後半
http://nipponroudokukan.txt-nifty.com/blog/2013/07/post-a08d.html
わたしは今回のTwitterの内容について、東氏からどういう意味なのか問われたものとして、より詳しく書いておくことにした。理論についての論争などではない。あくまで朗読から感じた理論の感想である。感想の正確さ確認するために、実際の朗読「黄金風景」と「高瀬舟」の録音の公開をお願いしたが、公開の意志はないということなので聞き直さないまま書かざるをえない。ただし、基本的な評価に変化はない。また、わたしが批評の根拠とする理論を示せというので、拙著『朗読の教科書』の参照ページを加えた。
●「東百道氏の講演と朗読を聴いた。(1)作品を作者の言葉と解釈して、黙読でのイメージを朗読に直結させる理論だ。(2)作者の伝記からの作品解釈に重点がある。(3)実際の朗読にも理論に欠ける点がそのまま出た。問題点を列挙する。(4)姿勢、(5)発声、(6)アクセント、(7)イントネーション、(8)プロミネンス、(9)語り構造、(10)語り口と感情」
(1)作品を作者の言葉と解釈して、黙読でのイメージを朗読に直結させる理論だ。――作品全体が、作者の書いたものとして読むから、原稿を読み上げることになる。せっかくのイメージの分析が生かされない。そもそも「イメージ」の概念がアイマイなのだ。つまり、読み手が作品を分析してイメージしたイメージが、どのようにして聞き手のイメージとなるのか、そのイメージはどんなかたちで伝わるのか、根本的な検討が必要なのだ。つまり、イメージの媒介としての音声言語の理論がないから、イメージが朗読の実践に「直結」させられる。『朗読の教科書』310ページ
(2)作者の伝記からの作品解釈に重点がある。――「黄金風景」の内容をすべて作者=太宰治の経験的な事実に置き換えて作品を解釈している。作品そのものの構造、とくに作者と人物との距離の分析が欠けている。つまり、文学作品の基本構造についての考えがない。『朗読の教科書』277ページ
(3)実際の朗読にも理論に欠ける点がそのまま出た。問題点を列挙する。――朗読の理論とは、いい朗読をするための理論であろう。理論で語ることを実際の朗読にどう生かすかという実践として評価される。朗読には不可欠な音声表現の基礎である(4)(5)(6)(7)(8)の表現理論がない。身体運動と観念が音声言語を媒介にして結びつくことが朗読の本質なのである。『朗読の教科書』第2章姿勢・発声・発音、第3章リズムある朗読の仕方
(4)姿勢、――朗読が声による表現であるなら、文字の言語の解釈ではなく声が問題だ。姿勢からつくる必要がある。だが、イスに腰かけて、足を前に投げ出し、背を丸めて、マイクに声を乗せるするような姿勢では声が出なくなる。むしろ、東氏の講演のときの発声法のほうがよかった。『朗読の教科書』36ページ
(5)発声、――(4)の結果として、声がでていない。声に強さがない。息がコントロールされていない。あの会場ならば、マイクなしでも表現できる声が必要である。『朗読の教科書』47ページ
(6)アクセント、――一言一言のことばにリズムもメリハリも感じられないのは、アクセントによることばの意味の明確化に関心がないようだ。また、アクセントが高低か強弱かという理念もないようだ。『朗読の教科書』90ページ
(7)イントネーション、――文の単位では、主部・述部も、修飾語と被修飾語の関係も、抑揚として表現されていないから、全体が単調になって眠くなる。実際に眠っている人を数人見かけた。『朗読の教科書』153ページ
(8)プロミネンス、――「黄金風景」で作者の考え方についての解説があったが、実際のよみでは、何れかの語句や文が強調されて、作品の展開の伏線になるはずであるが、ほとんどなかった。『朗読の教科書』255ページ
(9)語り構造、――全体の印象は、文学作品の表現ではなく、書かれた作品の「文章」を読み上げている感じである。というのは、作品は作者が書いた文章であるということから脱しないからだ。「語り手」が自らの思いを語り、登場人物の思いも語るということになれば、作品の立体的な表現になるだろう。『朗読の教科書』277ページ
(10)語り口と感情――作品の書き出しから作品の展開において、「語り手」の感情は揺れ動いて、変化していくものである。その感情の変化を「語り口」というわけである。日常の話し方で作品を読んでも作品が、「語り手」によって語られるという表現はできないのである。『朗読の教科書』314ページ
以上
【追記】
わたしは打ち切りましたが、東百道さんが追加を書いていますので紹介します。関心ある方はお読みください。画像(2002/9/7)は「その4」の参考資料です。2002/9/7第2回渡辺知明独演会の録音が聴けるようにリンクしました。(2013/08/10)
降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その1)(2013/07/23)
降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その2)(2013/07/25)
降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その3)(2013/07/27)
降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その4)(2013/08/02)
※
2002/9/7第2回渡辺知明表現よみ独演会
降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その5最終回)(2013/08/05)
降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その6追加)(2013/08/10)
*
朗読と文のイントネーションの原理(1)
朗読と文のイントネーションの原理(2)
添削の基本的な考えについては、
宮沢賢治「銀河鉄道の夜」をどう添削したか(1)を参照ください。
三、家
(1原文)
ジョバンニが勢よく帰って来たのは、ある裏町の小さな家でした。その三つならんだ入口の一番左側には空箱に紫いろのケールやアスパラガスが植えてあって小さな二つの窓には日覆いが下りたままになっていました。
「お母さん。いま帰ったよ。工合悪くなかったの。」ジョバンニは靴をぬぎながら云いました。
「ああ、ジョバンニ、お仕事がひどかったろう。今日は涼しくてね。わたしはずうっと工合がいいよ。」
ジョバンニは玄関を上って行きますとジョバンニのお母さんがすぐ入口の室に白い巾を被って寝んでいたのでした。ジョバンニは窓をあけました。
「お母さん。今日は角砂糖を買ってきたよ。牛乳に入れてあげようと思って。」
「ああ、お前さきにおあがり。あたしはまだほしくないんだから。」
「お母さん。姉さんはいつ帰ったの。」
「ああ三時ころ帰ったよ。みんなそこらをしてくれてね。」
「お母さんの牛乳は来ていないんだろうか。」
「来なかったろうかねえ。」
「ぼく行ってとって来よう。」
「あああたしはゆっくりでいいんだからお前さきにおあがり、姉さんがね、トマトで何かこしらえてそこへ置いて行ったよ。」
「ではぼくたべよう。」
ジョバンニは窓のところからトマトの皿をとってパンといっしょにしばらくむしゃむしゃたべました。
(1添削)
ジョバンニが勢よく帰って来たのは、裏町の小さな家でした。入口の空き箱には紫いろのケールやアスパラガスが植えてあり、二つの小さな窓には日覆いが下りたままでした。
ジョバンニは靴をぬぎながら云いました。
「お母さん。いま帰ったよ。工合悪くなかったの。」
「今日は涼しくてね。ずうっと工合がいいよ。ジョバンニ、お仕事がひどかったろう。」
お母さんはすぐ入口の室に白い巾を被って寝んでいます。ジョバンニは窓をあけました。
「お母さん。今日は角砂糖を買ってきたよ。牛乳に入れてあげようと思って。姉さんはいつ帰ったの。」
「三時ころ帰ったよ。みんなそこらをしてくれてね。」
「お母さんの牛乳は来ていないんだろうか。」
「来なかったろうかねえ。」
「ぼく、とって来よう。」
「あたしはゆっくりでいいんだから。姉さんがね、トマトで何かこしらえてそこへ置いて行ったよ。
お前さきにおあがり。」
「では、食べよう。」
ジョバンニは窓のところからトマトの皿をとって、パンといっしょにむしゃむしゃたべました。
※会話にはちょっとした言い回しでニュアンスが変わってしまうというこわさがあります。そこに注意して添削してあります。どこでお母(っか)さんが、どのように見えるか。
(2原文)
「ねえお母さん。ぼくお父さんはきっと間もなく帰ってくると思うよ。」
「あああたしもそう思う。けれどもおまえはどうしてそう思うの。」
「だって今朝の新聞に今年は北の方の漁は大へんよかったと書いてあったよ。」
「ああだけどねえ、お父さんは漁へ出ていないかもしれない。」
「きっと出ているよ。お父さんが監獄へ入るようなそんな悪いことをした筈がないんだ。この前お父さんが持ってきて学校へ寄贈した巨きな蟹の甲らだのとなかいの角だの今だってみんな標本室にあるんだ。六年生なんか授業のとき先生がかわるがわる教室へ持って行くよ。一昨年修学旅行で〔以下数文字分空白〕
「お父さんはこの次はおまえにラッコの上着をもってくるといったねえ。」
「みんながぼくにあうとそれを云うよ。ひやかすように云うんだ。」
「おまえに悪口を云うの。」
「うん、けれどもカムパネルラなんか決して云わない。カムパネルラはみんながそんなことを云うときは気の毒そうにしているよ。」
「あの人はうちのお父さんとはちょうどおまえたちのように小さいときからのお友達だったそうだよ。」
(2添削)
「ねえお母さん。ぼく、お父さんはきっと、間もなく帰ってくると思うよ。」
「あたしもそう思う。おまえは、どうしてそう思うの。」
「今朝の新聞に、今年は北の方の漁は大へんよかったと書いてあったよ。」
「だけどねえ、お父さんは漁へ出ていないかもしれない。」
「きっと出ているよ。お父さんが監獄へ入るような悪いことをした筈がないんだ。この前お父さんが持ってきて学校へ寄贈した巨きな蟹の甲らだのトナカイの角だの、今だってみんな標本室にあるんだ。」
「この次はおまえにラッコの上着をもってくるといったねえ。」
「みんながぼくにそれを云うよ。ひやかすように云うんだ。」
「悪口を云うの。」
「うん、けれども、カムパネルラは決して云わない。みんなが云うときは気の毒そうにしているよ。」
「あの人のお父さんとうちのお父さんとは、おまえたちのように小さいときからお友達だったそうだ
よ。」
※ジョバンニは、父が監獄ではなく、漁をしていると信じているのです。ラッコの上着はその証明です。
(3原文)
「ああだからお父さんはぼくをつれてカムパネルラのうちへもつれて行ったよ。あのころはよかったなあ。ぼくは学校から帰る途中たびたびカムパネルラのうちに寄った。カムパネルラのうちにはアルコールラムプで走る汽車があったんだ。レールを七つ組み合せると円くなってそれに電柱や信号標もついていて信号標のあかりは汽車が通るときだけ青くなるようになっていたんだ。いつかアルコールがなくなったとき石油をつかったら、罐がすっかり煤けたよ。」
「そうかねえ。」
「いまも毎朝新聞をまわしに行くよ。けれどもいつでも家中まだしぃんとしているからな。」
「早いからねえ。」
「ザウエルという犬がいるよ。しっぽがまるで箒のようだ。ぼくが行くと鼻を鳴らしてついてくるよ。ずうっと町の角までついてくる。もっとついてくることもあるよ。今夜はみんなで烏瓜のあかりを川へながしに行くんだって。きっと犬もついて行くよ。」
「そうだ。今晩は銀河のお祭だねえ。」
「うん。ぼく牛乳をとりながら見てくるよ。」
「ああ行っておいで。川へははいらないでね。」
「ああぼく岸から見るだけなんだ。一時間で行ってくるよ。」
「もっと遊んでおいで。カムパネルラさんと一緒なら心配はないから。」
「ああきっと一緒だよ。お母さん、窓をしめて置こうか。」
「ああ、どうか。もう涼しいからね」
ジョバンニは立って窓をしめお皿やパンの袋を片附(かたづ)けると勢よく靴をはいて
「では一時間半で帰ってくるよ。」と云いながら暗い戸口を出ました。
(3添削)
「お父さんは、ぼくをカムパネルラのうちへもつれて行ったよ。あのころはよかったなあ。学校から帰る途中、たびたびカムパネルラのうちに寄った。アルコールラムプで走る汽車があったんだ。レールを七つ組み合せると円くなって、電柱や信号標もついている。アルコールがなくなって石油をつかったら、罐がすっかり煤けたよ。」
「そうかい。」
「いまも毎朝、新聞を配りに行くけれど、いつでも家中しぃんとしている。」
「早いからねえ。」
「ザウエルという犬がいるんだ。しっぽが箒のようで、ぼくが行くと鼻を鳴らしてついてくる。今夜はみんなで烏瓜のあかりを川へながしに行くんだって。きっと犬もついて行くよ。」
「そうだ。今晩は銀河のお祭だねえ。」
「うん。ぼく牛乳をとりながら見てくる。」
「行っておいで。川へは、はいらないでね。」
「うん、岸から見るだけだよ。一時間で行ってくる。」
「もっと遊んでおいで。カムパネルラさんと一緒なら心配ないから。」
「きっと一緒だよ。窓をしめて置こうか。」
「ああ、どうか。もう、涼しいからね。」
「では一時間半で帰ってくるよ。」
ジョバンニは立って窓をしめ、お皿やパンの袋を片附けると、靴をはいて勢いよく暗い戸口を出ました。
※カンパネルラの家に行ったときの回想がくどいので簡潔にしています。
(つづく)
CM:コトバ表現研究所
「文章通信添削講座」
添削の基本的な考えについては、
宮沢賢治「銀河鉄道の夜」をどう添削したか(1)を参照ください。
二、活版所
(1原文)
ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七、八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして校庭の隅の桜の木のところに集まっていました。それはこんやの星祭に青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜を取りに行く相談らしかったのです。
けれどもジョバンニは手を大きく振ってどしどし学校の門を出て来ました。すると町の家々ではこんやの銀河の祭りにいちいの葉の玉をつるしたりひのきの枝にあかりをつけたりいろいろ仕度をしているのでした。
(1添削)
ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七、八人がカムパネルラをまん中にして校庭の隅の桜の木の下に集まっていました。こんやの星祭に青いあかりをつけて川へ流す烏瓜を取りに行く相談らしかったのです。
けれどもジョバンニは、手を大きく振ってどしどし学校の門を出て来ました。町の家々では、いちいの葉の玉をつるしたり、ひのきの枝にあかりをつけたり、銀河の祭の仕度をしていました。
※描写がくどいので簡潔にして、イメージが浮かびやすい順序にしました。
(2原文)
家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲ってある大きな活版処にはいってすぐ入口の計算台に居ただぶだぶの白いシャツを着た人におじぎをしてジョバンニは靴をぬいで上りますと、突き当りの大きな扉をあけました。中にはまだ昼なのに電燈がついてたくさんの輪転器がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働いて居りました。
ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子に座った人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから、
「これだけ拾って行けるかね。」と云いながら、一枚の紙切れを渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函をとりだして向うの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込むと小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、
「よう、虫めがね君、お早う。」と云いますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷くわらいました。
ジョバンニは何べんも眼を拭いながら活字をだんだんひろいました。
(2添削)
ジョバンニは、町の大きな活版所にはいってゆきました。小さな平たい函をとりだして、たくさん電燈のついた植字台の前へしゃがみ込むと、小さなピンセットで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。
※思い切って、活版所の細部を削除しました。人間関係よりもジョバンニの労働ぶりのみを残しました。
(3原文)
六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは拾った活字をいっぱいに入れた平たい箱をもういちど手にもった紙きれと引き合せてから、さっきの卓子の人へ持って来ました。その人は黙ってそれを受け取って微かにうなずきました。
ジョバンニはおじぎをすると扉をあけてさっきの計算台のところに来ました。するとさっきの白服を着た人がやっぱりだまって小さな銀貨を一つジョバンニに渡しました。ジョバンニは俄かに顔いろがよくなって威勢よくおじぎをすると台の下に置いた鞄をもっておもてへ飛びだしました。それから元気よく口笛を吹きながらパン屋へ寄ってパンの塊(かたまり)を一つと角砂糖を一袋買いますと一目散に走りだしました。
(3添削)
六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは拾った活字をいっぱいに入れた平たい箱を、手にもった紙きれと引き合せました。
それから、受付で小さな銀貨を一つ受け取ると、俄かに顔いろがよくなって、威勢よくおじぎをすると、おもてへ飛びだしました。
それから口笛を吹きながらパン屋へ寄って、パンの塊を一つと角砂糖を一袋買いますと一目散に走りだしました。
※ここも簡潔にしました。もらった賃金で何を買うかが明確に印象に残ります。
(つづく)
CM:コトバ表現研究所
「文章通信添削講座」
はじめに
宮沢賢治「銀河鉄道の夜」は、遺稿として残された原稿がそのまま活字になってしまったという不幸な作品です。もしも生きていたなら、本人がもっともっと手を入れて推敲を重ねたでしょう。
ですから、その文章も作品も全体的に不調和で未完成のかたちをとっています。しかし、賢治が手を入れるならこのようにしたであろうという方向で、わたしは自分の勉強のために全編を添削しました。
その原則はおよそ次のようなものです。
(1)余分な言葉を削る――下書きの段階で余分に書きすぎるのは誰にもあることです。あとで削るつもりでも残っていますから、思い切って削りました。
(2)複数の修飾語を絞る――あちこちで修飾語については賢治の迷いがあります。二つ三つの修飾語が未決定の場合には、そのなかから一つを選ぶか、あるいは別の的確な修飾語をあてました。
(3)文学的な表現の修正――話しの展開でイメージのしにくい部分やイメージが欠けている部分については補いました。また、イメージの順序を入れ替えたところもあります。
以下、最初に原文を示して、そのあとに添削済みの文章を並べました。そのあとで、添削の方法についてコメントを加えました。
一 午後の授業
(1原文)
「ではみなさんは、そういうふうに川だと言われたり、乳の流れたあとだと言われたりしていた、このぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか」
先生は、黒板につるした大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指しながら、みんなに問いをかけました。
カムパネルラが手をあげました。それから四、五人手をあげました。ジョバンニも手をあげようとして、急いでそのままやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気持ちがするのでした。
(1添削)
先生は、黒板に吊した大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指しながら、みんなに問いをかけました。
「では、みなさんは、そういうふうに、川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」
カムパネルラが手をあげました。それから四、五人手をあげました。ジョバンニは手をあげようとして、やめました。あれがみんな星だと、いつか雑誌で読んだのでしたが、このごろ毎日、教室でもねむく、本を読むひまもないので、どんなこともよくわからないという気持ちがするのでした。
※会話の前に、先生を登場させてだれの会話なのか、何があるのかを示している。ジョバンニの戸惑いのあとのことばは内面的な表現(内言)にしている。
(2原文)
ところが先生は早くもそれを見つけたのでした。
「ジョバンニさん。あなたはわかっているのでしょう」
ジョバンニは勢いよく立ちあがりましたが、立ってみるともうはっきりとそれを答えることができないのでした。ザネリが前の席からふりかえって、ジョバンニを見てくすっとわらいました。ジョバンニはもうどぎまぎしてまっ赤になってしまいました。先生がまた言いました。
「大きな望遠鏡で銀河をよっく調べると銀河はだいたい何でしょう」
やっぱり星だとジョバンニは思いましたが、こんどもすぐに答えることができませんでした。
先生はしばらく困ったようすでしたが、眼をカムパネルラの方へ向けて、
「ではカムパネルラさん」と名指しました。
するとあんなに元気に手をあげたカムパネルラが、やはりもじもじ立ち上がったままやはり答えができませんでした。
(2添削)
「ジョバンニさん。あなたはわかっているのでしょう。」
ジョバンニは勢いよく立ちあがりましたが、立って見ると、もう答えることができません。ザネリが前の席からふりかえって、くすっとわらいました。ジョバンニはどぎまぎしてまっ赤になってしまいました。
「大きな望遠鏡で銀河をよっく調べると銀河は大体何でしょう。」
やっぱり星だとジョバンニは思いましたが、こんども答えることができません。
先生は困ったようすで眼をカムパネルラの方へ向けました。
「では、カムパネルラさん。」
すると、あんなに元気に手をあげたカムパネルラが、もじもじ立ち上ったまま答えができませんでした。
※ここの会話は先生であることはわかります。まわりくどいところを削ることですっきりしました。
(3原文)
先生は意外なようにしばらくじっとカムパネルラを見ていましたが、急いで、
「では、よし」と言いながら、自分で星図を指しました。
「このぼんやりと白い銀河を大きないい望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。ジョバンニさんそうでしょう」
ジョバンニはまっ赤になってうなずきました。けれどもいつかジョバンニの眼のなかには涙がいっぱいになりました。そうだ僕は知っていたのだ、もちろんカムパネルラも知っている、それはいつかカムパネルラのお父さんの博士のうちでカムパネルラといっしょに読んだ雑誌のなかにあったのだ。それどこでなくカムパネルラは、その雑誌を読むと、すぐお父さんの書斎から巨きな本をもってきて、ぎんがというところをひろげ、まっ黒な頁いっぱいに白に点々のある美しい写真を二人でいつまでも見たのでした。それをカムパネルラが忘れるはずもなかったのに、すぐに返事をしなかったのは、このごろぼくが、朝にも午後にも仕事がつらく、学校に出てももうみんなともはきはき遊ばず、カムパネルラともあんまり物を言わないようになったので、カムパネルラがそれを知ってきのどくがってわざと返事をしなかったのだ、そう考えるとたまらないほど、じぶんもカムパネルラもあわれなような気がするのでした。
(3添削)
先生は意外なようにしばらくカムパネルラを見ていましたが、「では。よし」と云いながら、自分で星図を指しました。
「このぼんやりと白い銀河を、大きないい望遠鏡で見ますと、たくさんの小さな星に見えるのです。ジョバンニさん、そうでしょう。」
ジョバンニはまっ赤になってうなずきました。眼には涙がいっぱいでした。
(そうだ僕は知っていたのだ、もちろん、カムパネルラも知っている。いつかカムパネルラのうちでいっしょに読んだ雑誌のなかにあったのだ。)
カムパネルラが、お父さんの書斎から巨きな本をもってきて、「ぎんが」というところをひろげ、まっ黒なページいっぱいに白い点々のある美しい写真を見たのでした。
(カムパネルラが忘れるはずもないのに、返事をしないのは、ぼくがこのごろ仕事がつらくて、学校に出てもみんなと遊ばないのを気の毒がったからだ。)
※回想部分がくどいので簡潔ににしました。しかも、その場での回想という印象を強めています。
(4原文)
先生はまた言いました。
「ですからもしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを巨きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油の球にもあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるかと言いますと、それは真空という光をある速さで伝えるもので、太陽や地球もやっぱりそのなかに浮かんでいるのです。つまりは私どもも天の川の水のなかに棲んでいるわけです。そしてその天の川の水のなかから四方を見ると、ちょうど水が深いほど青く見えるように、天の川の底の深く遠いところほど星がたくさん集まって見え、したがって白くぼんやり見えるのです。この模型をごらんなさい」
(4添削)
先生はまた言いました。
「ですから、この天の川を川だと考えるなら、一つ一つの小さな星はみんな川の底の砂や砂利の粒にあたるわけです。また、これを、巨きな乳の流れと考えるなら、星はみな、乳のなかに細かに浮かんでいる油脂の球にあたるのです。そんなら、何がその川の水にあたるかと云いますと、それは光をある速さで伝える真空というもので、太陽や地球もやっぱりそのなかに浮んでいます。わたしどもも、天の川の水のなかに棲んでいるわけです。そして、そのなかから四方を見ると、ちょうど水が深いほど青く見えるように、天の川の底の深く遠いところほど星がたくさん集って見え、したがって、白くぼんやり見えるのです。この模型をごらんなさい。」
※先生のことばがくどくてイメージしにくいので、描写の順序に工夫をして簡潔にしてあります。
(5原文)
先生は中にたくさん光る砂のつぶのはいった大きな両面の凸レンズを指しました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶがみんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いのでわずかの光る粒すなわち星しか見えないでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見えその遠いのはぼうっと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、またその中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話します。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へでてよくそらをごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい」
そして教室じゅうはしばらく机の蓋をあけたりしめたり本を重ねたりする音がいっぱいでしたが、まもなくみんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。
(5添削)
先生は、光る砂のつぶのたくさん入った大きな両面凸レンズを指しました。
「天の川の形は、ちょうどこんなです。いちいちの光るつぶがみんな、じぶんで光っている星だと考えます。太陽がほぼ中ごろにあって、地球がすぐ近くにあるとします。みなさんが夜、このまん中に立ってレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒すなわち星しか見えないのです。こっちやこっちの方は厚いので、星がたくさん見え、遠い星は、ぼうっと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんなら、このレンズの大きさがどれ位あるか、またさまざまの星については、もう時間ですから、この次の理科の時間にお話します。今日は、その銀河のお祭なのですから、みなさんは外へ出てよく空をごらんなさい。では、ここまでです。本やノートをおしまいなさい。」
そして、教室中はしばらく机の蓋をあけたりしめたり、本を重ねたりする音がいっぱいでしたが、まもなくみんなは、きちんと立って礼をすると教室を出ました。
※これも先生のことばがくどくて、イメージしにくいので簡潔にしてあります。しかも声のリズムもよくなっています。声に出して読んでみてください。
(つづく)
CM:コトバ表現研究所
「文章通信添削講座」
児童言語研究会という国語科の民間教育団体が作成した「学習論理語イ一覧表」というものがある。小学生から中学生までに、論理を操作する語句をどのような段階で教育するかという一覧表だ。
言語能力を高めるためには、文で考える能力と文と文とを論理的に構成する能力が必要だ。そのための学問として論理学がある。そこには、次の3分野がある。
(1)概念論
(2)判断論
(3)推理論
多くの論理学の書は、(3)に偏重している。(1)と(2)との基礎付けが弱いのだ。
この表は、いわば、(1)におけるさまざまな概念を操作するためのカテゴリの教育のためのものである。