日本コトバの会の小説の会で、ここ一年かけて、志賀直哉『小僧の神様』(岩波文庫)を読んできた。月に一度の例会で一作ずつである。収録された作品を発表順に並べたら下記の通りになる。どれも、これまで何度も読んだ作品であるが、それぞれの作品について新しい発見があった。
母の死と新しい母(1912年2月『朱樂』)、
正義派(1912年9月『朱樂』)、
清兵衛と瓢箪(1913年1月『読売新聞』)、
范の犯罪(1913年10月『白樺』)、
城の崎にて(1917年5月『白樺』)、
好人物の夫婦(1917年8月『新潮』)、
赤西蠣太(1917年9月『新小説』)、
流行感冒(1919年4月『白樺』)、
小僧の神様(1920年1月『白樺』)、
焚火(1920年4月『改造』)、
真鶴(1920年9月『中央公論』)
今月の「真鶴」は、風景の描写が美しい情緒的な作品と読まれるようだが、その奥に37歳の志賀直哉らしい深まりを感じた。志賀直哉の心理主義文学への発展ともいえるかもしれない。それは、前に書いた
「小僧の神様」についての感想に連なるものである。1920年の三作品は十分に発展しなかった志賀直哉文学のある傾向を示唆する作品のようだ。
「真鶴」は起承転結の「結」から始まる。「起」は歳暮の小使をもらった主人公の少年が弟をつれて下駄を買いにでるが、下駄の代わりに水兵帽を買ってしまうところから始まる。その帰り道で、少年は法界節の一行の女に美を感じた。その結果として少年の内面に生じたさまざまな変化が描かれるのである。少年の変化は三つの方面に表れる。
第一が、風景の美の発見、そこに性の目覚めといえる肉感的なものである。真鶴の風景は少年の心象風景である。それは冒頭の小学校の教員のエピソードと対比できる。波に揺られる恋の「捨小舟」が、のちに「うねりに揺られる」漁船として見える。
第二が、少年の弟への態度の変化だ。性の目覚めとはエゴイズムの発動である。それと弟への思いは対立する。その葛藤は少年が女の事故死をイメージするところにある。性の抑圧というフロイト的な解釈も可能である。
第三は、時系列の起にあたるエピソードにある「水兵帽」である。少年の水兵へのあこがれは、弟に水兵帽を与えても惜しくないものに転換する。
それぞれの方面で、女に美を感じる以前の少年とのちがいが表現されるのである。法界節の女の美の発見が持つさまざまな意味を描いたこの作品は、まさに「小説」というものである。
さて、来月から日本コトバの会の小説の会では、夏目漱石「永日小品」の全作品を、また一年かけてじっくり読むことになる。参加を希望されるかたは
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