日本のポッドキャスティングがスタートして、およそ一年がたった。わたしの「ケロログ」での表現よみ公開もちょうど一年になる。音楽のポッドキャスティングが盛んなのは当然であるが、このところ「朗読」が注目されるようになった。
これまで製品として「朗読」を販売してきた会社も、とうとう売れる時代が来たと感じているようだ。ネット上にさまざまな宣伝文句が見られる。しかし、わたしがこれまで聴いてきた朗読には魅力がない。文字の作品の代理のようなものでしかない。本を読むのがめんどうだから聴いたらいいという考えだろう。
わたしは「朗読」とは本来、独立した音声表現だと考えている。文字言語の代理品ではない。作品の表現であると同時によみ手の表現であることを強調してきた。今、朗読を製品として売ろうとするとき、これまでのような売り方はできないだろう。そのあたりの質の問題が明らかになりつつあるようだ。
「朗読」が文学作品の表現であることは認めざるを得ないから、さまざまな売り込みの言葉が工夫される。「一流の俳優が読む」、「意外な読み手のおもしろさ」などである。しかし、いくつかのよみを聴いてみればわかるように、これまでの古い「朗読」の考えが変わらない限り、製品としての朗読の普及もおぼつかないだろう。
そこで、わたしが考えるのは、表現活動としての朗読である。これまでのような既成の規格化された朗読製品を聴くだけではなく、自らがよみ手として参加する朗読の表現活動である。かつて、江戸時代には義太夫・浄瑠璃は町人参加の芸能として盛んだったという。自ら義太夫を語る者が同時に聴き手となった。そのために、玄人の芸能のレベルもあがったのだそうだ。
今、「朗読」がさまざまなかたちで注目を浴びるとき、わたしはよみ手が増えることを期待している。朗読の魅力は聴くことよりもよむことにある。