わたしの目の前にあるのは文字の列。枠に収めて印刷された文字の行と列。この一冊の本の中にかつて声で語られたことばの痕跡がある。作者が文字として埋めこんだ世界を声によってよみがえらせよう。仮想の空間に建築される現実性を帯びた世界だ。声は音ではない。声は生命(せいめい)のいぶきだ。わたしの声には鳥の羽ばたきの力強さがある。わたしは肉体すべを使って声を響かせる。
わたしは自身に呼びかける。からだよふいごとなれ。パイプオルガンのようにゆったりと響け。わたしの声帯はあたたかくゆったりした息を待ちかまえる。わたしの舌は小きざみにピストン運動を繰り返し、喜怒哀楽の表情とともに、わたしの口はなめらかに動く。声帯のふるえは心のふるえだ。声帯よ、ときにゆるやかに心の底の思いを響かせよ。ときにぴんと張りきって、雲雀のように高らかな声を響かせよ。
聴き手に媚びるな。自分を気取るな。書かれた文字を読み上げるな。読み上げたコトバを押しつけるな。自分の声を聞かせるな。文字のよみまちがいなど恐れるな。流れる汗を気にするな。呼吸を忘れよ。実力以上の自分を見せようとするな。
文字の向こうの世界を見つめろ。声の向こうに世界を浮かぱせろ。声で作品の世界を描き出すのだ。アクセントは単語の命だ。イントネーションは心の揺れだ。プロミネンスは思いの強さだ。今いる場所を忘れろ。わたしはいつかいなくなる。だが、わたしの生命(せいめい)のふるえを表現する声の軌跡はいまここに描かれる。
文字を見た瞬間、そこに浮かんだ思いを声に重ねて表現するのだ。その瞬間ごとに声が描き出す作品の世界に注目せよ。もう自分などいなくていい。無心、無心、無心、無心だ。自身に呼びかける自分を忘れてしまうとき、わたしは作者の描く作品の世界にはいりきる。自分に自分が呼びかけていることを忘れたとき、わたしは無となり、聴き手には作品世界が浮かぶのだ。
もう、わたしはいない。あるのはわたしの精神の運動だけだ。わたしは消えた。あとに残るものは何もない。わたしの声がこの世界に響いたということも、わたしという人間がこの世に存在したことも、すべて消えて行くだろう。一瞬一瞬の声とともに、わたしの生命(せいめい)は輝きを繰り返すのだ。(渡辺知明)
●演奏のエクスタシー―「さて、創造的な選択者は二つのことを創造する。彼は、彼自身の心の中と、他の人々の心の中にある状態を創造するが、この状態をグールドは名付けてエクスタシーという。また彼は認知し得る世界にも、ある状態を創造する。つまり同じ作品の別の演奏とは重大に違う、ある特定の音楽作品の独自な一回こっきりの演奏である。彼は第二のもの、つまり音楽演奏の一回性、を創造することによって第一のもの、つまりエクスタシーを創造する。テクノロジーは、第二のものの永久的なイメージないし記録(レコード)を可能にすることによって、両方に永久性を与える。ひとりの選択者が創造できるもっと他の状態もあるかもしれないが、われわれはグールドの著作から、それを推理することはできない。とにかくわれわれは前述の二つでケリをつけた。」ジェフリー・ペイザント(木村英二訳)『グレン・グールド―なぜコンサートを開かないか』(1981音楽之友社)129ページ