よみ手のナマの声を聴かなければ味わえない感動というものがある。放送でも録音でも、また会場でもマイクを通したよみには、どんなに再生技術が上がったとしても、ナマの声から感じられる何かが欠落することになる。
音声でメッセージを伝達する場合、アナウンスなどはそれでもいい。だが、朗読のように文学作品を声に出して表現するときには、ナマでなければならない。ナマの場合には、よみ手の息づかいや会場全体の空気のふるえまでが聴き手に伝わる。それを味わうには、ナマのよみの聴ける会場に出かけなければならない。
わたしの主宰する表現よみO(オー)の会でも、わたしの表現よみ独演会でもマイクは使わない。だから、聴き手の人数もナマの声の会場にふさわしいのは、せいぜい多くて80人くらいである。聴き手の人数が多くなると、よみ手の意識は声に向けられる。そのとき、微妙にテンションが上がって上ずった表現になる。その典型が舞台の台詞回しである。もちろん、セリフの基礎的な意味が把握されていれば、テンションを上げても上ずることはない。しかし、多くの舞台俳優は、セリフの内容よりも声を出すことに意識を奪われがちである。
さて、9月3日(土)午後に、わたしの
第8回・表現よみ独演会がある。もちろんナマの舞台である。梶井基次郎「城のある町にて」、中島敦「かめれおん日記」、太宰治「大力」の三人三様の作品をよみ分ける。文学作品の声の表現に関心ある方には、ぜひナマのよみを味わってほしい。