「
朗読ろうどく」は、「朗読」の理論について、いつも刺激的な話題を提供してくれる。今回の「
朗読のカウンセリング的な効用について」もおもしろい問題だった。ポイントとなるのは次の指摘だ。
「朗読という行為が自分の心にある種の働きかけを行い、それによって心の変容を図ろうとしているのではないか」
「クライエントが自分の心を見つめ、そこにある問題と対峙し、感情を揺さぶられながら解釈し受け入れていくことよって心の構造を変えていくこと」
わたしの表現よみの理論にも通じるものがある。「朗読」というと聴き手に伝えることという観念がある。それでは何を伝えるのかというと、伝えるべきなにものかがよみ手の声になければならない。今回の問題では、よみ手自身の表現というもののあり方が問われている。
一般に朗読では伝達に性急になるために、声や発声や発音というもの自体が問題にされる。そうなると決まってよみ手自身の内面が空虚になりがちである。それは表現にならない。それでは、どうやってよみ手自身の内面を充実させて声にするかというと、テキストとの対決であるる。テキストの音声化は表現の目的であり、テキストはその手段である。
人間はそもそも受身のものであって、何らかの外的な刺激によって、内面が活発化するのである。テキストのなかでも文学作品、とくに小説は、そのための十分な刺激になる。だから、よみ手自身が作品をよむたびに自己の内面の変化と対決しつつ、それが声の変化となって表現されるのである。そこが表現よみが「朗読」ではないゆえんである。