日本語をよんだり、語ったりする発声には二つがあるようだ。これまで、わたしは高低アクセントの理論の不十分さを指摘してきた。また、高低アクセントの理論にしたがうと発声そのものまでが限定されることを書いてきた。つまり、高低アクセントの発声はアナウンスのための発声なのである。それで強弱アクセント原理の有効性を主張してきた。
前にも例に挙げたのは「アメ(雨)」だ。「ア」を高く発声しようとすると、必ず鼻から抜いたような軽い発声になる。これが
アナウンスの発声である。それに対して、高低アクセントの発声にすれば、「ア」はノドを下げて飲み込むような力の入れ方になる。これが
表現の発声である。
表現の発声は日本の伝統的な語り芸の発声である。浄瑠璃、義太夫、能、狂言、歌舞伎などの発声がこれである。しかも、これは声を人に伝えることに重きをおいたものではない。つまりアナウンスのためではない。アナウンスの場合、聞き手に送られるメッセージの責任は発声者にはない。それが声そのものから感じられる。
それに対して、表現の発声では、自らの声にこめられた確信が表現される。そこには、自らのことばについての責任意識が感じられるのである。こうなると、二つの発声のちがいは、もう単なる発声の問題ではなくなる。自らの声とことばについて、発声者がどう責任をもって発言するかという個人的な態度の問題なのである。そして、アナウンスと表現との根本的なちがいの基礎は、発声の仕方そのものにある。
さて、さまざまな声の仕事に関わる人たちがいるが、声の表現を目指す人にとって必要不可欠なのは表現の発声である。アナウンスの発声は一般に行われているが、表現の発声については、上にあげたような特定の芸術分野以外では未開拓である。