2005年4月2日(土)夜、
シアターΧ(カイ)で吉田日出子主演の『アンナ・フィアリングとその子供たち』を観た。原作はベルトルト・ブレヒト(千田是也訳)『肝っ玉おっ母とその子供たち』である。吉田日出子の舞台を観るのは初めてだった。以前に、
吉田日出子の朗読を聞いてひどく感動したことを
「朗読批評」に書いたので見に行ったのである。
わたしが舞台でまず関心を持つのは演者の声である。やはり吉田日出子はよかった。「いまいましいよな、戦争ってやつは」という一言で、わたしは思わず涙ぐんでしまったほどだ。そこにはまさに万感の思いがこもっていた。また、小柄な体で声も大きくはないのに、一つ一つのコトバが生き生きと伝わってくるのだ。
それに対して、ほかの演者たちの声は大きくてうるさいほどなのに、コトバそのものもコトバの意味も立ち上がってこなかったのはどういうわけだろうか。大声の役者たちには、明らかな型がある。客席に語りかけているという型である。語り手自身がコトバにこめた思いよりも、語りかける型だけが浮き立ってくる。おもしろいことに、これらのセリフは朗読に近いのである。ところが、吉田日出子はちがう。わたしの評価する表現よみの表現なのである。
吉田日出子の歌もよかった。心に響くセリフの延長上にあるからメロディーとともにわたしの心を打った。わたしには大ぜいの出演者はいらなかった。演者のわきで動き回る人たちも不要だった。もっともっと単純化して、吉田日出子のコトバと歌をたっぷり聞かせる舞台にしてほしかった。