11月3日(火)に
おおいた語りべの会で講演をした後で、さまざまな感想をいただいた。そのなかで印象的だったのは、「語りなのでよかった」というものでした。疑問に思ったのでよく聞いてみると、「表現よみとは朗読のようなものだと思っていた」という。
一般に「語り」や「お話し」の活動をしている人にとっては、「朗読」のように文章を読むような表現は、なにか歯がゆいもののように感じるのだそうだ。大分県玖珠市の出身で「日本のアンデルセン」と呼ばれる口演童話の活動家・久留島武彦の伝記の中にも、「作品を読むのではなく語ることこそ子どものためになる」という考えがあったといわれる。
そう考えると、わたしの表現よみの理論と実践が「読み」ではなく「語り」であると見られたのはありがたいことである。というのは、そもそも表現よみの理論と実践は、いわゆる「朗読」に対する批評的な意識から、「朗読」のもつ限界を破るために大久保忠利が提唱したものだった。つまり、「聞かせ意識」として、いかにも聞かせようとしたり、押しつけるような読み方に替わるものと考えられたのである。わたし自身、大久保氏から直接に、くりかえし「朗読」への批判を聞いたものだ。
大久保氏がコトバの基本としてくりかえしたのは「生きたコトバ」という考えである。これは、人と人とが向き合ったときに、どのようなコトバのやりとりをするかという問題である。その点から見ると、「朗読」は人と人との交流としたら物足りないものになる。 大久保氏の没後、20年近くのあいだ、わたしたちの実践のなかで、表現よみは大きく飛躍した。
現在、表現よみ理論の中心となるのは、「語り口」と記号づけの理論である。これを基礎にしたときの文学作品のよみは、単なる「朗読」ではなくなっている。作品は文章としてよみあげられるものではない。人と人とが向き合って交流する場における生きたコトバのやりとりとなった。初期の段階から発展して、生きたコトバの音声表現として、耳で聞くならほとんど「語り」―それも本来の「お話し」と変わらないものとなっている。
そして、「語り」や「お話し」と比べたときの表現よみの利点は、文字化された文学作品の財産を生かすことができることである。口頭伝承の文学作品には、記録としての量、内容的な質、両者においての限界がある。表現よみは、記録されたテキストを「語り」して生き返らせるものであるから、歴史的な文学の蓄積を背景としている。どのような作品を「生きたコトバ」して「語り」の姿に生き返らせるか、未来に向かってすばらしい可能性を秘めている。