朗読とひとことに言ってもいろいろなものがある。今、語ろうとするのは、朗読の質は、読んでいるか語っているかという評価基準の軸のうえで考えられるということだ。これを文学作品の朗読に限って考えてみたい。つまり、事務的に文書を読み上げる音読は問題にしない。
いかにも読んでいるように感じられる朗読には、いくつかの特徴がある。
(1)読み手の声が一定で、多くの場合、地声の一本やりである。
(2)読み手の感情が一定で、最初から最後まで感情に変化はない。
(3)イントネーションやプロミネンスの音量の振れ幅が少ない。
(4)一語一語の音(オン)や声の響きにこだわっている。
(5)不特定多数の聞き手に聞かせている響きがある。
それに対して、語るように感じられる朗読には、次のような特徴がある。
(1)読み手の声に変化があって、地声ばかりでなくウラ声もある。
(2)読み手の感情が作品の展開の部分部分によって変わる。
(3)イントネーションやプロミネンスの音量の振れ幅が大きい。
(4)文章の意味や作品内容の意味がありありと浮かんでくる。
(5)特定のひとりに語りかけているかのような響きがある。
以上の差はどこから出てくるのだろうか。そう考えると文学作品のどのレベルを表現しようとしているのかという問題にたどりつく。文学作品は文章で書かれている。声でよもうとするときに、意識をするのは次のどのレベルなのか。それによって、「読む朗読」になるか、「語る朗読」になるかのちがいが出てくる。
文学作品の文章の形式面でいうと、(1)文字→(2)単語→(3)文→(4)段落→(5)節→(6)章→部、といったことになる。「読む朗読」で重視するのは(1)からせいぜい(3)までだが、「語る朗読」では、(3)からうえのレベルを重視する。すると、文章の形式面ばかりではなく、内容面が問題になる。そうなると、文学作品を文章ではなく、作品としてとらえる必要が出てくる。
そうなると読み手は自分の外におかれた文章を読みあげるだけではすまなくなる。いったんは作品の内面に入り込んで作品を理解したり、作品の内容をそこに生じる感情とともに表現しなければならない。
では、読み手は作品の内面に、つまり作品の世界にどのようにして入り込むことができるのか。その仕掛けが文学作品の文体である。文学風のよみものには欠けているものだ。そして、文体というもののもっとも本質的な要素が「語り手」の存在である。読み手が「語り手」と同化したときに、読み手は作品を語ることができるのだ。そして、そのとき発せられる声はもう朗読ではなく、文学作品の表現となるのである。(参照サイト:
ことば・言葉・コトバ)