「朗読」は一般の人たちのブームではない。さまざまな分野のプロが参入している。アナウンサー、俳優、声優などである。なかでも、職業柄、声優の朗読は目立つ。かつてラジオの時代にはラジオドラマがさかんだったが、今では声優の仕事はおもに吹き替えだろう。それもいろいろある。アニメ映画、西洋の映画、東洋の映画だ。
これらのなかで、わたしが何よりも違和感を感じるのは、東洋映画である。近ごろはやりの韓国映画だ。日本人によく似た人物の表情からリアルにその心情を読み取れるのだが、耳に聞こえる声はまるでちがっものだ。それがキライで韓国映画を見ないという人もいる。
吹き替えの始まりはおそらく、テレビの草創期にアメリカ映画からはじまった。当時のお年寄りは、「おや、この人はずいぶん日本語がうまい」と驚いたという笑い話もある。日本人とは見かけも表情もちがう西洋人である。日本人の日常の声の表現をそのまま使うわけにはいかなかっただろう。だから、独自の西洋人の「語り口」が工夫されたはずだ。
その後、アニメがさかんになった。アニメのキャラクターは西洋人よりもさらに日本人からはなれているのは当然である。そうなると、また独自の「語り口」が必要になる。つい最近、交替した「ドラエモン」の大山のぶ代さんのあの声は、アニメの表現として成功したものといえる。今では、アニメの吹き替えがずいぶん増えた。さらに、マンガを原作としたドラマも増えている。
ところが、ここに来て韓国ドラマである。わたしが感じる違和感は、これまでの声優の技術への疑問である。声優の「語り口」には職人芸である。残念ながら仕事の評価の低さに応じたギャラだそうだ。手際よく片づけなければならない面もあるだろう。しかし、それまでの伝統的な声の技術では対応できないところがあるようだ。
そこで求められるのがあらたな声のリアリティである。朗読は声優ばかりではなく、俳優にとっても、またアナウンサーや話すことを職業とする人にとっての基礎的な訓練になる。何よりも目指すべき目標は、テキストとされる文学作品の声と「語り口」を、アニメや吹き替えのレベルのものではなく、人間が生きている現実の生活を基準にしたリアルな表現にすることである。そんな「語り口」が常識になるときこそ、日本人の声の文化も変わるだろう。