坪内逍遥は明治24(1894)年の論文「読法を興さんとする趣意」で、音読という読み方を(1)機械的読法、(2)文法的読法、(3)論理的読法の3つに分けている。
今回は、(3)論理的読法の一部を紹介する。最初が『逍遥選集11巻』(初版1927春陽堂。復刻版1977第一書房)からの引用、そのあとにわたしの現代語訳をつけた。
【
原文】
(1)予が謂う論理的読法は、欧米に謂う「エロキューション」の脱化なり。(259ページ)
(2)文法的読法は文章の意味を明晰較著ならしめんやうに文章を読む法なり。(中略)更に一歩進めて作者の本意(むしろ作者其の人の為人)を看破し、人間と其の作者との関係を明らかにせざるべからず。此に於いてや評批的読法(クリチカル・リーディング)──説明的読法、解釈的読法即ち論理的読法起こる。(259ページ)
(3)予が謂ふ論理的読法は、欧米に謂ふ「エロキューション」の脱化なり。必ずしも朗読の際に此の法を用ふべしとは言はず、黙読の際には必ず用ひざる可からざるといふなり。(中略)予は或るエロキューショニストの謂ふ美読法を興さんとするなり。美読法とは啻《ただ》に文の意味を明瞭にし(文法的読法)有力にし面白くするに止まらで、其の文自作ならば自家の感情を朗読の間に活動せしめ、もし又他人の文ならば、其の原作者の本意を朗読の間に活動せしめ、若し又院本中なる人物の臺辞《せりふ》ならば、其の人物の性情を朗読の間に躍如たらしめんと欲するものなり。更に具さに之れをいへば、凡そ一文章を読まんとするに当りては、まず其の発音を分明にして、(中略)若しくは文の情悲壮なれば読む声も悲壮に、文の情優美なれば読む声も優美に、文の情急なれば読む声も急に、文の情緩なれば読む声も緩に、情断々たれば声もまた断々、情嗚咽すれば声もまた嗚咽し、情怒号すれば声もまた怒号すらんように、及ぶべき限りは文と情と相応相伴して、緩急の句読に注意し、声の抑揚、高低、弛張に注意し、哀傷、墳激等の情をその声の色にあらはさんとする心得あるべし。(中略)されば、或ひは此の法を名づけて活読法といはんも不可なからん。何となれば彼の機械的読法の死読法に対して此の然るべき所以明かなれば成り。(259~261ページ)
(4)論理的読法にては、彼の文法的読法に於いての如くに、強ち文法的句読には拘泥せず、専ら其の文章の深意を穿鑿す(批評)、否、寧ろ其の文の作者の其の人物の性情を看破するに力む(解釈)、自家みづからが其の作者又は其の人物に成りたる心持にて其の文中に見えたる性情を以て直ちに自家の性情となし、誠実熱心に或ひは憤慨し、或ひは悲憤し、或ひは哀傷し、或ひは憤怒して読まんと力む。怒るべきべき文句には怒りて読み、笑うべき文句には笑って読み、急ぐべき時には急いで読み、沈むべき時には沈んで読み、総て「しかじかならばしかじかなるべし」といふ論理に従ひて読むが故に、名づけて論理的読法といふなり。(262ページ)
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【
現代訳】
(1)私の言う論理的な読み方というのは、欧米で言う「エロキューション」を日本に適用したものである。
(2)文法的な読み方とは、文章の意味を明晰、較著になるように文章を読む方法である。(中略)さらに一歩進めて、作者の本意を看破し、むしろ作者その人の人となりを看破し、人間とその作者との関係を明らかにするものである。ここにおいて、批評的な読み方─―説明的な読み方、解釈的な読み方すなわち論理的な読み方が起こるのである。
(3)私が言う論理的な読み方は、欧米でいう「エロキューション」を日本に適用したものである。必ずしも朗読をするときにこの方法を使うわけではないが、黙読の場合には必ず用いるべきである。(中略)私は外国のエロキューションにあたる「美読法」を提唱したいのである。美読法とは、ただ文の意味を明瞭にしておもしろくするにとどまらず、その文が自作のものなら自分の感情を朗読で活かし、もしも他人の文ならば、原作者の本意を朗読で活かし、もし演劇の台詞ならば、その人物の性格や心情を朗読で生き生きさせるのである。もう少し具体的に言うならば、文章を読もうとするときには、まず発音を明瞭にして、文の感情が悲壮ならば声も悲壮にし、文の感情が優美ならば声も優美にし、文の感情が急ならば声も急にして、文の感情が緩やかなら声も緩やかにし、感情が切れ切れならば声も切れ切れにし、感情が嗚咽するなら声も嗚咽し、緩急の区切りに注意して、声の抑揚、高低、弛張に注意し、哀傷、墳激などの感情をその声の色に表わそうとするべきなのである。(中略)それで、この読み方を、名づけて「活読法」ということもできるだろう。なぜなら、機械的な読み方が「死読法」であるのに対して、こちらのすぐれていることが明確だからである。
(4)論理的な読み方においては、文法的な読み方による語句の区切りにはこだわらずに、もっぱらその文章の深い意味を詮索する(批評)。いや、むしろ作者が描いた人物の性格を看破する努力である(解釈)。読み手自身が、作者または人物になった心持ちにおいて、その文中に見える性情となって、悲憤したり、哀傷したりして読もうと努力するのだ。怒るべき文句は怒って読み、笑うべき文句は笑って読み、急ぐべきときには急いで読み、沈むべきときには沈んで読む。すべて「こうならばこうなるべきだ」という論理に従って読むのだから、名付けて論理的読み方というのである。(現代語訳=渡辺知明)
坪内逍遥は明治24年の論文「読法を興さんとする趣意」で、音読という読み方を(1)機械的読法、(2)文法的読法、(3)論理的読法の3つに分けている。
今回は、(1)機械的読法の紹介である。最初に『逍遙選集11巻』(1927春陽堂/復刻版1977第一書房)からの引用、そのあとに、わたしの現代語訳をつけた。
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原文】機械的読法とは、俗にいふ素読なり。文章の句読をだに殊更には注意せずして、只文字の並びつながれる順序を追ひて、例へば小児が『論語』『大学』などを素読し、(中略)只さらさらと読み流しゆくをいふ。さて此の読み方をする人の声いと朗かにて、流暢ならば、之れを褒めて立板に水を流したらんやうなりといひ、譏りて素直なるノッペラ棒読みといふ。さて又いといと拙き時には、之れを嘲りて「弁ケイ、ガナ、ギナタ」読みとも、村雨過ぎての雨だれ読みともいふ。(中略)其の声は流暢にて朗らかなるなるにも拘わらず、文意ところどころ解しがたく、若しくは唯々おぼろげに聴き取らるるのみに止まることあり。(中略)所詮、読む声に情無く、温度なく、生活なし。此の法或ひは名づけて死読法ともいふべくや。今は教育普通の世なれど、百人に就きて死読法を行ふもの、少くとも九十人の割合ならん。而して死読法にて文を読める者に、其の文の本旨を解し得るもの、予の経験によれば、殆ど無し。
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○【
現代訳】機械的読み方とは、俗に言う素読である。文章の語句の区切りさえ注意せずに、ただ文字の並びの通りに順序を追って、たとえば子どもが『論語』『大学』などを素読し、(中略)ただサラサラと読み流してゆくのをいう。さて、この読み方をする人の声が朗らかで、流暢であると、これをほめて「立て板に水を流したようである」と言い、そしって「素直なノッペラ棒の読み」という。さてまた、幼いころには「べん、けい、がな、ぎなた」読みとも言う。(中略)その声は流暢で朗らかであるのに、文の意味がところどころ理解できずに、あるいはただぼんやりと聞き取れるだけにとどまっている。(中略)しょせん、読む声に情がなく、温度がなく、生活がない。この読み方を名づけて「死読法」とでも言おうか。いまは、教育が常識になっているけれども、百人のうちで死読法を行うものは少なくとも九十人の割合だろう。かくして、死読法で文を読んでいるもので、その文の真意を解しているものは、わたしの経験から言うとほとんどいない。(現代訳=渡辺知明)
坪内逍遥は明治24年の論文「読法を興さんとする趣意」で、音読という読み方を(1)機械的読法、(2)文法的読法、(3)論理的読法の3つに分けている。
今回は、(2)文法的読法を紹介する。最初が『逍遥選集11巻』(初版1927春陽堂。復刻版1977第一書房)からの引用、そのあとにわたしの現代語訳をつけた。
○【
原文】文法的読法は、所謂朗読法の本領にて、又の名を正読法ともいふべし。発音は法に合い、句読は宜しきを得、読み声の緩急が善く文意と調和して正当なるが故なり。即ち文章を朗読して他人の聴覚に訴え、彼れの視覚に訴えたらんと同様の感銘を生ぜしめんと力むるものなり。
文法的読法と機械的読法との第一に異なる所は、彼れは読む声に調子無く、変化無く、是れには読む声に抑揚あり、緩急あり、句読あり、多少句拍子の変化あり。文法的読法は、文章の意味を明瞭に且較著に会得せしめんことを旨とす。故に、読むに先立ちて、先ず深く文の品質を留意し、且其の体格を分別し、細かに句読に心を用ひ、をさをさ発音の誤り無からしめ兼ねて音訓の別を正しうし、時に文義を斟酌して、多少の句拍子を附け、声の緩急を考へ、あくまでも文章の本意を明晰ならしめんと力む。
世間時としては馬琴の七五調、俊基の吾妻下り、若しくは近世志士が作れる長歌やうのものを句調子附けて抑揚頓挫して誦するものあれど、かかるは唱歌的句拍子といふものにして、拍子あれど、文法にも将た論理にも適わず。こは一種の機械的読誦法なり。即ち五七、七五等の句拍子に釣られて、我知らず調子づきて誦するのみ。こは予が所謂文法的読法の句読並びに句拍子は此と異なれり。即ち声の抑揚と弛張は文義に従ふものと知るべし。(256-257ページ)
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現代訳】文法的な読み方とは、いわゆる朗読法の本領であって、またの名を「正読法」と言う。発音は文法に従い、語句の区切りは正しく、読み声の緩急が、よく文の意味と調和して正当であるからである。すなわち、文章を朗読して他人の聴覚に訴えるとき、文章が視覚に訴えるのと同様な感銘を生み出そうと努力するものである。
文法的な読み方と機械的な読み方との第一に違うところは、機械的読み方は読む声に調子がなく、変化がないが、文法的読み方は読む声に抑揚があり、緩急があり、語句の区切りがあり、多少は語句の調子に変化がある。文法的な読み方は、文章の意味を明瞭にかつハッキリ会得させることを目的とする。ゆえに、読むに先立って、まず深く文の品質に留意して、かつその構造を見分けて、細かく語句の区切りに心を用いて、おさおさ発音の誤りがないようにして、また、音訓の区別を正しくして、時には文の意味を斟酌して、多少は句に調子をつけて、声の緩急を考えて、あくまでも文章の本意を明晰にしようと努める。
世間では時として、馬琴の七五調、俊基の吾妻下り、あるいは、近世の志士が作った長歌のようなものを、句ごとに調子をつけて抑揚、頓挫して誦する人がいるけれど、それは唱歌的な句拍子(シング・サング・トーン)といふものであって、拍子はあっても、文法にも、論理にも合っていない。それは一種の機械的な読誦法である。つまり、五七、七五などの句の拍子に釣られて、無意識に調子づいて誦するだけである。それは私の言う文法的な読み方による句読、句拍子とはちがうのである。つまり、声の抑揚と弛張は文の意味に従うものなのである。(現代語訳=渡辺知明)
2013年3月31日に、毎年買うのが恒例の『NHKラジオテキスト・ことば力アップ』(2013NHK出版)を買った。
今年も、NHKアナウンサーが総力をあげて自ら目ざす朗読と読み聞かせの理論を展開している。今年は、朗読が三分の一、読み聞かせが三分の一と、本来のアナウンスの分野よりも比重が重くなっている。朗読や読み聞かせは、むしろアナウンサーの専門外の仕事だと思う。
実際に、朗読や読み聞かせよりも、アナウンス関係の解説のほうが内容が充実しているのだ。とはいうものの、良かれ悪しかれ、現代日本のNHKアナウンサーの朗読理論の水準がわかる。いちばん知りたいのは、朗読という文学作品の表現を、本来のアナウンスとのちがいをどのように理論づけるのかということだ。
まず、最初の印象は、「語り手」ということにますますこだわるようになったことだ。これはいい傾向だ。だが、どう読むかというとき、「話すように」「しゃべるように」というのは問題だ。「語り手」は、作中の聞き手に話しているのだ。作品はそのフィクションの世界で生きている。それを現実の聞き手に向かって、話したり、しゃべったりしたら、せっかく「語り手」を持ち出した意味がない。
もう一つ、残念なのは、さまざまな作品が取り上げられているが、ただ引用されているだけである。その下に、ぱらぱらと解説が書かれているが、一般的な読みの注意どまりで、1つ1つの言葉の読み方の参考にはならない。要するに、朗読のために記号をつけるという作業はまったくはじまっていないのだ。
というわけで、わたしは最初の作品である夏目漱石「文鳥」の引用部分に「記号づけ」 をしてみた。それを公開するので、興味のあるかたは、記号を見ながら実際に作品を朗読してみてほしい。「記号づけ」の記号の読み方は、拙著『朗読の教科書』第5章を参照ねがう。小学生でも分かるような単純なものである。
音声認識ソフトで朗読の発音訓練や話し方の訓練ができます。これはずいぶん前にわたしが考えていたことです。次に、『
はなしがい通信220号』(2004/11)から、音声認識ソフトによる言語能力向上の三つのポイントを紹介しておきます。
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音声入力ソフトによるコトバの訓練の効果はいろいろありますが、今は3つあげておきましょう。
第1は、日本語の発音の訓練です。ソフトによる声の認識は一つ一つの音ではなく、語句のまとまりについて行われます。それでも、一音一音をより正確に発音すると認識率があがるのです。さらに、ソフトについてくるモニター用のヘッドホンをつけて行うと、自分の声が異様なほどよく聞えるので、正確な発音ができるようになります。
第2に、文の構造を意識する訓練です。人の文章を読んでも、自分で書いた文章を読んでも、語句の意味のまとまりが分かるように読むときと、そうでないときとでは認識率が変わります。主部と述部の関係、修飾と被修飾との関係をつかんでよむとやはり認識率が高まります。
第3は、ことばを発しながら考える訓練です。人は文章を書くときにも頭の中でコトバの音を思い浮かべています。それを口から出せば口述筆記になるのです。考えをコトバに出すと、そのコトバに続いてさらに考えが進められます。これは話し方の訓練そのものです。
認識率はソフトの技術と自分の能力との兼ね合いで微妙に変化します。ソフトの技術と自分の能力とのバランスによってソフトも成長するし、自分の能力も伸びるのです。
わたしは音声入力ソフトを、文章の「読み」と「書き」を一体化させる道具として使っています。これを子どもたちの教育に応用することも考えられます。これまでの言語教育では、「話し」と「書き」とを結びつけることができませんでした。しかし、このソフトで話し声を文章にしてみれば、声と文字との関係が分かります。声のコトバが即座に文字のコトバに変わるのですから一目瞭然です。このソフトによって、コトバ教育の分野に新しい展望が開けるかもしれないと思っています。
以上で引用終了。現在わたしが使っているソフトはAmiVoice SP2.03です。