ひとりに語りかける文体――です・ます文体の基礎
「国民読書年」と読書の方法の提案
印しつけでよむ日本国憲法「前文」
本を個人で消費する読書法
「読解力」を高める接続語の論理
黙読にもいろいろある
「声でよむ名作本」のケロログ版
本は活字だけでは読めない!
「印しつけ」で本を読む
印つけで本をよんで消費する
文章の添削をしていて最近気づいたことがある。「です・ます文体」の重要性である。これは、現代人のコミュニケーション能力とも深く関わりがある。
受講者に、「目上の人に贈りものをするときに添える文章」という課題を出した。特定の相手に向けた文章である。これが、なかなか書けない。というよりも、たしかに文末はです・ますなのであるが、ひとりの人に向けて語られた響きが感じられないのである。
たしかに、文字づらは「です・ます」であるが、それは字づらにとどまっている。本来伝えるべき丁寧な声の響きがないのである。これは、です・ます文体としては致命的な欠陥である。だが、ちまたに流布している文章を見れば、これはめずらしいことではない。形式ばかりのです・ます文体である。
それは、声のことばにおいても同様である。です・ますで語られる声のことばのなんと冷たく、義務的な響きであるか。要するに、日常の文字言語も音声言語も、ひとりに語りかけることばの暖かさ、丁寧さ、親切さにまるで欠けているのである。いわゆる「である調」の文章には、そのような心遣いがなくても、読み手を圧倒するような権威がある。読み手は文章の前にひれ伏してしまうのである。それがたとえ不十分な表現であっても、疑問を抱かせないようになる。
それに対して、です・ます文体は、読み手と書き手とは対等の立場に立ち得る。小学生の作文教育の基本として、「先生、あのね」と書き出す技法があった。かつて、わたしは、これは文章の初歩に限られる指導法と思っていた。だが、今、改めてひとりに向かって語りかけるです・ます文体の文章指導の重要性を感じている。これは、子どもの課題でなく、人間関係に責任を負うおとなの課題なのである。
このような文章の手本となるのは、文学作品の文章である。夏目漱石「こころ」の下、「先生と遺書」の手紙文体、あるいは、梶井基次郎「Kの昇天」、また、太宰治「きりぎりす」の告白の文体などがある。特に、太宰治の作品が没後百年を生き延びているのも、まさに、ひとりに語りかける文体の力によるものだろう。そのような作品を声に出して表現する
表現よみの訓練によって、文章の表現能力も上達することは、わたしの実践からも言えることである。
2010年2月3日(水)の新聞によると、東京都江戸川区では、小中学校に「読書科」を設けることになったそうだ。2010年は「国民読書年」ということにちなんだものらしい。年間で1000時間くらいの読書の時間を確保するのが目的のようだ。
一と口に読書といっても、その方法はさまざまである。要するに、本の読み方そのものについて、学校教育の中で基本となることが教育されてないのだ。その一方で、若者の読書ばなれや、書籍の売り上げの減少が問題になっている。出版社がやることといったら、せいぜい文庫の表紙を若者向けにすげ替えるくらいのものだ。
わたしにはいくつかの提案がある。そのいくつかについて考えてみよう。
(1)
読み聞かせ――子どもたちのアタマに音声言語のモデルをつくるものだ。子どものころに聴いた声が、文字を見たときにアタマに聞こえるようになる。読書の原点と成るものである。気になるのは、いわゆる読み聞かせが、自然発生的なことである。読み聞かせをする人たち――特にボランティアの人たちには、「気持ち」を出すのではなく、作品の内容を正確によみとれる訓練が必要である。
(2)
黙読から音読へ――学校では朝の読書といって、授業開始の時間を利用して、十分くらいの読書時間を設けている。これは黙読で行われている。わたしは、小さな声でいいから音読をするべきだと考えている。黙読の理解を音読で確認できるからだ。周囲が気になるならそれぞれの生徒が耳をふさげば、自分のよみを確認できる。
(3)
朗読(音読)から表現よみへ――以前に増して朗読がさかんであるが、ざんねんながら音読レベルのものが目立つ、作品の味わいをより正確に、より深くするためには、音読的な朗読ではなく、作品の表現としてのよみへと発展しなければならない。わたしの表現よみの理論と実践による研究は、それを目ざすものである。
(4)
印しつけよみ――本が売れないという理由の一つは、若者の読書ばなれ、もう一つ、電子本などの登場がある。しかし、紙の本にしかできない利点がある。書き込みである。しかも、自由に手書きでできることである。(山田洋次監督『母べえ』で、留置場への差し入れの本の書き込みを消しゴムで消すシーンは印象的だ)電子本でこれを実現するのは、まだまだ先のことだろう。しかも、読者は本に書き込みをすることで、文章の理解、作品の理解、本の理解が深められるのである。書き込みによる読書の方法は、英米では中学高校の課程で教育されていると聞いている。だが、日本ではまれである。
以上、読書の方法について、思いつくことをあげてみたが、これらが総合的に実践されたときに、国民の読書能力というものも向上するだろう。ちなみに、これらの具体的な方法については、下記のいくつかのサイトを参照くだされば幸いである。
【参考サイト】
Web表現よみ入門
http://www.ne.jp/asahi/kotoba/tomo/yomi/index.html思考力を高める文章指導
http://www.ne.jp/asahi/kotoba/tomo/bunshou/bunshoutitle.htm
日本国憲法の改定が問題になっている。すでに、自民党からは素案が出されたし、国民投票の方法のついての議論もすすんでいる。今から国民一人ひとりが考えねばならない問題だ。
はたして自分はどういう態度をとるのかと考えたとき、まずは憲法をよむことが基本だろう。しかし、しっかりと原文をよんでいるひとはどれだけいるのだろうか。わたし自身、原文を厳密によんだことはなかった。だが、よまないことには始まらない。憲法の理念が述べられた「前文」から読み直してみようと思った。
というわけで、わたしの研究している「印しつけ」で読んでみた。すばらしい理念が書かれているのであるが、その読解はなかなかの難物であった。その結果を日本コトバの会の雑誌『あゆみ62号』(2006)に論文を掲載した。「
印しつけでよむ日本国憲法『前文』」である。それを画像つきでネットで公開する。本をよむときに、印しつけをすることによって、いかに難解な文章でも、明確になるという証明である。そして、また、この方法が、文章の推敲や添削にどれだけ有効かわかるだろう。
今日から読書週間で、今日は「活字文化の日」だそうだ。わたしは日々、いろいろな本を読んでいる。読書による独学でさまざまな知識を身につけてきた。
本は安い。わずか数百円から数千円を出せば、いろいろな知識を得ることができる。以前に、ある出版社の広告で「一冊の本さえあれば地球の裏がわへも旅することができる」というスローガンがあった。地球の裏がわどころか人間が行くことのできない観念や哲学の世界へも行けるのだ。それは実在しない想像の世界への旅ともいえる。
だが、問題は本のよみ方だ。読書家とは同時に本のよみ方までも考える者のことかもしれない。わたしも本が売れないという風潮を気にしている。どうしたら本が売れるかというと、営業に関わる人たちは、次つぎに新しいものへと飛びつこうとするようだ。それは資本主義社会の経済原理だから仕方のないこだろう。経済原理が根本から変わらないかぎり、この考えは残るだろう。
しかし、わたしは本の売り方について二つのことを考えている。第1は、文学作品の本の売り方だ。すでに古典となった本でも、本としての機能を生かした出版をすれば売れるということだ。本は手にして読むものだから、目に活字が入りやすい、つまり読みやすい作りの本を作れば売れるのだ。その点で、最近、一斉に刊行された
ポプラ社の新書版の「ポプラポケット文庫」シリーズはすばらしい。文字と行の配置などがじつに読みやすい。
第2は、本を個人的に消費する方法だ。買ってきた本を自分の身につけるために、わたしは以前から本への書き込みをしている。「印しつけ」というものである。本は何度でも読めるものであるが、それが故に再販割引販売などの問題などが起こっている。しかし、一人ひとりの読者が本に書きこみをするようになれば、まちがいなく本は消費される。一度よんだら、古書店などにはうれないことになる。だが、それによって本は確実に個々人の身につくのである。
本が売れないと嘆いている出版社には、本当によみやすい体裁の本を作ること、そして、印しをつける読書法の普及に努めるといいと思うのである。
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「ブログ版:春日井教育サークル」の
「読解力」と「論理エンジン」である。文の理解を論理的に深めることの重要性を指摘した本を紹介してくれた。
わたしは文の論理を、接続語(接続詞ないしは文の構成上で論理を担った語句)で具体的にとらえることの重要さを感じている。小中学校の国語の試験によくあるように、本をよみながらそれらの語句は四角で囲んでいくのである。日常的にそのような読者をすることを「印しつけよみ」とよんでいる。
その接続語については、「
接続語の論理的機能一覧」という表にしてあるので参照してほしい。さらに、このほかに文の論理を明確にするためには、
日本コトバの会の文法学会で、下川浩『現代日本語構文法』(1993三省堂)をテキストにして実施している「文分析」が有効であるが、これについてはまたあとで書くことにする。
黙読というとわかりきったように思いがちだ。しかし、黙読にもいろいろある。文字の音声化を基本としたら、次のように区分される。ポイントはどこまで音韻を意識して読むかである。
(1)音(オン)よみ……一文字一文字について音(オン)のイメージを浮かべながらよむ読み方だ。音読と同じだけの時間がかかる。目で文字を見る→音(オン)のイメージを浮かべる→意味がわかる――という三段階で文を理解する。音読から移行したばかりの読み方だ。
(2)目よみ……文を文節ごとに区切って目で見て理解していく読み方だ。文字から音(オン)をイメージすることはない。目でも字を見る→意味がわかる――という2段階で理解する。音(オン)よみよりも早く読める。「黙読」という場合の多くはこれだ。
(3)拾いよみ……本の活字面を絵を見るようにながめながら、目につくところを拾って「音(オン)よみ」「目よみ」をしていく。あるいは、活字面の全体をながめながら、潜在意識に記憶させるような読み方だ。読み手の意識の集中の仕方や関心の持ち方によって目につく文字が変わってくる。いわゆる「速読」はこれである。
「どのようにしたら熟読の力がつくのか」と聴かれることがある。黙読ではついつい(3)や(2)をしがちだが、(1)を心がけることで理解力が変わってくる。なにを今さらと思われるかも知れないが、音読のブームの根拠はこのあたりにある。
さらに理解力を深めるためには、たんなる音読ではなく、文章を見て理解した内容を自らの声で表現することである。文字で書かれた文章にはないものが声の文章にはある。アクセント(とくに強弱)、イントネーション、プロミネンスなどを表現するひとによって、文の意味や文脈の把握ができるのである。わたしたちが知らず知らずのうちに力んで話している話し方を文章の理解にも応用するのである。(参考=「
表現よみにおける理解と表現」)
音声ブログというものはありがたい。
「ケロログ」の「芸術」というジャンルに
「Blog表現よみ作品集」を開いたことで、これまで苦労していた音声ファイルのアップがじつに簡単になった。そうなると、文学作品のよみのファイルばかりでなく、インターネットラジオのような番組まで考えられる。
ひとつ、またひとつと音声を利用したアイディアがわいてくる。今すぐに実行可能なのは、もともとのホームページ
「ことば・言葉・コトバ」で行ってきた
「声でよむ名作本」である。これまでは、ファイルのアップや録音などに手間がとれるのでなかなか手が着かなかった本がある。それは次のような本である。
ゲーテ(柴田翔訳)『若きヴェルテルの悩み』(ちくま文庫)、志賀直哉『小僧の神様』(岩波文庫)、尾崎翠『第七官界彷徨』(筑摩書房)、『池田みち子の東海道中膝栗毛』(集英社文庫)、堀田善衞『若き日の詩人たちの肖像』(集英社文庫)、吉川英治『宮本武蔵』(講談社文庫)、アントニオ・タブッキ(須賀敦子訳)『供述によるとペレイラは』(白水社新書)、大杉栄『自叙伝』(岩波文庫)、下村湖人『論語物語』(講談社学術文庫)など……。
どれが先になるか分からないが、少しずつ録音で紹介しようと思う。優先順位はリクエストの
メールも考慮に入れたい。(読者の方どうぞご意見やリクエストのメールをください)
ほかにも、本の紹介はしたものの録音のない作品もある。次のようなものだ。これについてもすすめたい。
小山清 『落ち穂拾ひ・聖アンデルセン』 新潮社480円(1994.1.15)、ゴーゴリ(船木裕訳) 『ペテルブルグ物語』 群像社、1,000円(2004.7.6) 、ディケンズ(藤岡啓介訳)『ボズのスケッチ』(上・下) 岩波書店上600円(2004.1.16)下660円(2004.2.17)、文部省 『復刊/あたらしい憲法のはなし』 童話屋286円(2001.2.26) 、オマル・ハイヤーム(小川亮作訳)『ルバイヤート』 岩波書店400円(初版1949.1.15/2003.8.25)
気になるのは著作権だが、書評において引用が許されるなら、
声での引用という考えもあっていいと思う。本は冷凍食品のようなものである。それぞれの読者がいかにして解凍するか。その方法のひとつとして声による再生がある。わたしの表現よみをきっかけに実際の本を手に取る読者が増えれば、声による読書という文化にも貢献できるだろう。もちろん、若い人たちによるポッドキャスティングも大歓迎である。
朗読ブームが起こってから、声に出して読むという本がさまざまなかたちで刊行されている。しかし、わたしが気になるのは、それらの本の多くが読み手が声を出して読むときの心理的な問題を考えずにただ印刷していることである。ほとんどの本が、声に出してよもうとする気力を失わせるものだ。さまざまな問題がある。
第1は、活字の配置である。文字の大きさは考慮されているが、ただ文字を大きくすればいいというものではない。文字と文字のあいだ、行と行とのあいだ、これが微妙に読みを左右する。黙読ならば、自分のテンポで読めばいい。しかし、声を出すときには、瞬時にして文字を判断して声にしなければならない。文字を大きくすればするほど視線の移動が大きくなる。それでよみにくくなる場合もあるのだ。
第2は、活字の字体である。読み手の心理に負担がないのが明朝体である。教科書体やゴシック体などでは、読もうという気力がなくなる。わたしは教科書体の文章を見ると、どうしても学校の教科書を読まされた経験が浮かんでしまう。教科書にあった文章の多くはつまらないものであった。
第3は、ただ文字があれば声に出して読めるものだという思いこみが問題だ。そこにはたいして工夫がない。挿絵をつけようが、さまざまなジャンルの文章を組み合わせようが同じことだ。わたしが提案したいのは、日常的な文章には「
印しつけ」、文学的な文章には「
記号づけ」をするということだ。声に出すことは「句読点のとおりよめばいい」といった単純なものではない。文字に表記された言語と声の言語とのちがいがある。そこに通路をつけるためには、活字を見ればわかるという常識から脱しなければならない。
(わたしは、
声でよむための「銀河鉄道の夜」の記号づけシリーズを開始した)
わたしは以前から、本に印しをつけて読む読み方を提唱している。これは、文章を正確によみとるための印しだ。基本的な印しは次のようなものになる。声に出してよみながら印しをつけていくとさらに効果があがる。印しの色分けはいらない。なんども繰り返し検討するために、消しゴムの使えるエンピツがいいのだ。
(さらに文学作品を声と印しでよむための「記号づけ」もある。例、三島由紀夫「仮面の告白」) (1)主語を○で囲む、述語に線を引く。
(2)接続語に相当する論理的な語句は四角で囲む。
(3)思想あるいは名詞句は〈 〉(山カギ)で囲む。
(4)内言(ひとりごと)は( )(カッコ)で囲む。
(5)語られたコトバは「」(カギ)で囲む。
(6)並べられた項目には丸数字をつける。
複雑な文を理解するときにとくに重要なのは(3)である。とくに、人の考えや思想をとりあげて論ずるような文では、文の構造を明確にするとともに、どんな考えが対立しているのかが明確になる。「印つけ」の過程が同時に文の理解過程なのである。いわば、かたちの理解と中身の理解とが「印つけ」において合流するのである。
一例をあげよう。原文を読んでから印つけ文を読んで、読みやすさを確認してほしい。((1)の印しは省略、下線は四角の代わり、小文字のローマ字は丸数字の代わり)
原文―「娯楽というものの価値が正当に評価されていない、娯楽が有つ深長な意義にもっと注意を払わなければいけない、娯楽の理論的な考察をもっと真剣に試みる必要がある、とそう私は主張したいのである。なぜかと云うとやがて明らかになるように、民衆が自分自身の生活について反省する時、娯楽は最も重大な実際問題だろうと思われるからだ。尤も吾々は、かつて農山漁村の民衆生活を心配したり、後には軍義的労働力としての民衆の体位を心配したりする、ああいう心配の仕方によって民衆のことを気にかけているわけではない。吾々は勿論民衆を支配したり指導したりする役目を持ってはいない。」(娯楽論/戸坂潤)」
印しつけ―「(a〈娯楽というものの価値〉が正当に評価されていない、b〈娯楽が有つ深長な意義〉にもっと注意を払わなければいけない、c〈娯楽の理論的な考察〉をもっと真剣に試みる必要がある)、とそう私は主張したいのである。
なぜかと云うとやがて明らかになるように、(民衆が自分自身の生活について反省する時、娯楽は最も重大な実際問題だろう)と思われる
からだ。
尤も吾々は、〈
かつて農山漁村の民衆生活を心配したり、
後には軍義的労働力としての民衆の体位を心配したりする、ああいう心配の仕方〉によって民衆のことを気にかけているわけ
ではない。吾々は
勿論〈民衆を支配したり指導したりする役目〉を持っては
いない。」(娯楽論/戸坂潤)」
このような印しをつける過程が、わたしが文章を理解する過程である。人はたいていこのような分析を何の手段も持たずに頭のなかで行っている。だが、印しつけの検討をすれば、文章の論理構造が明確になり、理解が深まる。上の印しに到達するまで、なんども文章は読み返された。さらに、上の印しのついた要素をとりだして、論理構造を示せば、この文章の要点もとらえられるのである。これはディベートの訓練にもなる基本的な作業である。かたちのある文章について行うので、口頭でやりとりされる論の理解より容易であるから、聴き方の予備的な訓練にもなるのである。
※
日本コトバの会では
戸坂潤読書会を毎月第1第4水曜の夜に開催
本が売れないとか、読書ばなれとか、が問題になっている。
わたしの提唱する「印つけよみ」ならば、一人ひとりが本を消費することになる。本をただ目で見るだけではなく、エンピツで印しを付けてよむのである。本は個人によって確実に消費される。
今、出版界は次つぎに新しい本を出そうとしている。しかし、印つけをするならば、これまで出版された作品であっても、また新たな消費の道が開けることだろう。
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