岡本太郎生誕100年を記念しての組みよみを
「お話しPod表現よみ作品集」│
(前半)、
(後半)│で公開した。
岡本太郎が父・岡本一平と岡本かの子とヨーロッパに出かけたときの往復書簡を構成したものです。(校正・脚色=渡辺知明)
2000年12月8日、
千一夜会・第2夜の公演での録音です。読み手は、渡辺知明、平野純子、小脇貞子、神門彰子。
2010年12月7日(土)日本コトバの会の表現よみフェスティバルで、新美南吉「ごんぎつね」をテキストにして記号づけの解説をした。それをYouTubeにアップした。
わたしの読みは下記のサイトで聞くことが出来る。
http://www.ohanashipod.jp/podcast/watanabe/2010/02/post_25.html
2010年12月7日(土)日本コトバの会の表現よみフェスティバルで、新美南吉「ごんぎつね」をテキストにして記号づけの解説をした。それをYouTubeにアップした。
わたしの読みは下記のサイトで聞くことが出来る。
http://www.ohanashipod.jp/podcast/watanabe/2010/02/post_25.html
【増補記事】今年、表現よみオーの会10周年記念公演で、チェーホフ「かもめ」(堀江新二訳・渡辺知明脚色)のドラマリーディングをした。そこから学ぶことが多くあった。それで、3月に公開した記事を増補しておく。
朗読において表現力を向上させるために、ドラマリーディングの訓練が有効である。作品の読みあげのようなよみから脱するためには、地の文と会話とを思い切って切り離してみるのである。地の文は聴き手に対する「語り」として、会話はドラマの世界の「セリフ」として表現するのである。
もちろん、既成の戯曲をそのまま上演することも可能である。しかし、よみの場合には、舞台装置や照明や音楽などが不要であるし、舞台転換の自由さがある。セリフばかりではなく、語りを取り入れて数時間の戯曲を1時間以内でまとめることも可能である。
わたしの指導する表現よみオーの会では、これまで下記のようなドラマリーディングの公演をしてきた。また、練習用としてもいくつかのドラマリーディングの台本を作成してきた。「ハムレット」をのぞいて、すべてがオリジナルの台本である。
作 品 /
作 者 (
公開年 )
録音公開サイト○【追加】
かもめ/チェーホフ渡辺知明ひとりよみ/
ロシア文学・表現よみの会○
ハムレット/シェイクスピア(2004年福島公演)
「お話しPod表現よみ作品」○
猫の事務所/宮沢賢治(2005年秋田公演)なし
○
カチカチ山/太宰治(2005年5周年記念公演)なし(
参考よみ)
○
シラノ・ド・ベルジュラック/ロスタン(2006年福島公演)
別館【表現よみ作品集】○
マクベス/シェイクスピア(2007年福島公演)
「お話しPod」の広場○
リア王/シェイクスピア(2008年福島公演)
「お話しPod表現よみ作品」○
銀河鉄道の夜/宮沢賢治(2009年福島公演)
別館【表現よみ作品集】○【追加】
セロ弾きのゴーシュ(2010福島公演)近日公開予定
○
オツベルと象/宮沢賢治(2009年東急カルチャーBE雪が谷)なし
○
牛肉と馬鈴薯/国木田独歩(2009年川崎多摩表現よみの会)なし
○
セロ弾きのゴーシュ/宮沢賢治(2010年5月1日福島公演予定)なし
○【追加】
かもめ/チェーホフ(堀江新二訳・渡辺知明脚色)(2010年10月30日)
お話しPodの表現よみ作品 上記の作品の公開サイトでお聴きになると、ドラマリーディングの楽しさがお分かりになると思います。
うっかりしてたが、今年は、チェーホフ生誕150年だそうだ。わたしはチェーホフの作品が好きで、いくつかの作品を表現よみしている。これを機会にリストにしてみた。
●別館【表現よみ作品集】「
牡蠣」「
ワーニカ」「
ポーリニカ」「
かもめ」
http://kotoba-hyogen.seesaa.net/category/5381448-1.html●声でよむ名作本『チェーホフ/ユモレスカ』より「
男爵」
http://www.ohanashipod.jp/podcast/watanabe/2006/10/22_2.html●
かもめ(ドラマリーディング)ひとりで戯曲をよんでいます。ト書きもセリフもよみ分けています。
http://www.ohanashipod.jp/podcast/ohanashi/2006/07/post_17.html●2006/09/03渡辺知明第10回表現よみ独演会「おかしな、おかしな、チェーホフ?」=「
鶯の顔見せ興行」「
駆け出し作家の心得」「
ポーリニカ」「
人を作家に駆りたてるもの」「
ヴァライエティ・ショールーム」「
男爵」(松下裕訳)
http://www.ne.jp/asahi/kotoba/tomo/dokuenn10.htm●2001/11/11シアターカイ=チェーホフ演劇祭―「
すぐり」「
黒衣の僧」
http://www.ne.jp/asahi/kotoba/tomo/chek1111.htm
2010年3月18日(木)夜NHK「倉本聡「創る」世界」という番組で、FMシアター「コロース」の演出・録音の風景が紹介された。
わたしの第一の疑問は、動きによって声の表現ができるだろうという考えである。冒頭で、倉本氏は、ラジオドラマは最も高度な表現だと語った。そこではじまったのが、動きと共にセリフを言わせる演出であった。
わたしは2種類の俳優のちがいというものを考えた。舞台俳優と音声俳優とである。舞台俳優とはこれまでの俳優である。だが、「音声俳優」というべき演技者があるべきだ。これは「声優」ではない。残念ながら多くの声優は、演技職人のようになっている。いわゆる「フリ」の演技だ。それは型ともいえる。驚いたフリ、怒ったフリ、悲しんだフリ……である。これについて、友近&なぎだが、おもしろいパロディを見せてくれる。
これとはちがって、声だけでリアルな演技ができる音声俳優が必要なのだ。声のみによる演技は、舞台のセリフによる演技とは表現の要素がちがうのだ。舞台俳優のセリフは動きに支えられた声の演技であり、音声俳優はまさに声のみでの演技なのである。そこには、動きとはちがったかたちで、人と人との距離なども含めて表現しなければならない。
また、ラジオドラマのリアリティについては、受け手の側の想像力の質もちがうのだ。 ラジオドラマが、舞台をそのまま録音したものであっては表現として欠けるところが出てくる。声からののイメージは舞台のかわりに視覚そのものの再現をするわけではない。もしかしたら、舞台にあるような視覚的な装置や、俳優の動きすらイメージから切り捨てていいものかもしれない。
ならば、ラジオドラマのイメージでは何を実現するのか。おそらく、それは戯曲ではなく、小説から生まれるイメージに近いものである。舞台の再現ではなく、より精神的なイメージなのである。それは、単に現実音の再現によっ成り立つものではない。狂言の擬音などのような抽象化された表現力を要求する。
2010年3月14日(日)NHKテレビで吉本隆明の講演―沈黙から芸術まで―が放映された。その中で述べられた「自己表出」と「指示表出」という対立概念が、朗読についても応用できる。
朗読というと、文学作品の文字を、ただたんに読み上げることのように思われている。あるいは、作品の内容を人に伝達することであるという考えの人もいる。しかし、よみあげる文章が文学作品の場合には、それはたんなるコミュニケーションではなくなる。吉本隆明は、繰り返し「言語はコミュニケーションばかりではない」と語り続けた。そして、モーツァルトの音楽の演奏を例に挙げて、ただ楽譜の音符を弾く演奏家と、曲を理解して表現する演奏家とのちがいを述べた。
吉本隆明は自分の生涯の仕事を「芸術言語論」であるという。言語を単なるコミュニケーション手段とはせずに、作者の「自己表出」の結果としての作品に結実させるものだということになるだろう。そこで、問題になるのは、創造者の立場からいうと「演奏」が問題になる。その根である「自己表出」は「沈黙」となるのではなく、客観的な作品のかたちとならねば、芸術そのものとして価値はなくなるであろう。
そうして、作品の享受者の立場から、次に問題になるのが「演奏」の問題である。作品の表現を「演奏家」がどのように受け止めて、自らの「自己表出」としての「演奏」を行えるのか。吉本隆明のいう「芸術言語論」は、文学作品の音声表現の問題としても通用するのである。表現の目標となるのは、S.K.ランガーのいう「シンボルとしての芸術」のかたちをとらえられるかどうかである。
お話しPodにアップした「
ごんぎつね」が手ちがいでファイルがダウンロードできないことにきのう気づいた。すでに聴けるようになったことをお知らせする。
YouTubeに、芥川龍之介「蜘蛛の糸」、三大随筆「枕草子」「徒然草」「方丈記」、森鴎外「舞姫」をアップした。([
YouTube 渡辺知明]で検索)動画がないので画像と組み合わせた。よみ手の動画などを入れることは考えなかった。作品とよみ手との表現の場とは次元がちがうからである。
今回の作業で、よみ声と画像とのコラボレーションというものがあることに気づいた。「蜘蛛の糸」と「枕草子」では、ピンぼけの写真を水彩画風にしてセザンヌのような画像にした。「蜘蛛の糸」は現代文なので文字は入れなかった。ただ、トキとトコロだけを表示した。「枕草子」には、声に合わせて文字を配置した。耳で声を聞きながら目では後を追って読む練習ができるだろう。いわば、日本語によるシャドウイングである。
「徒然草」には内容を象徴するような写真を組み合わせた上で字幕を配置した。今回のなかでもオーソドックスなやりかただろう。それに対して、「方丈記」は内容に従うのではなく、あえて現代の映像を組み合わせた。これによって、古典の内容と現代の問題との関連ができたような気がする。
そして、「舞姫」である。明治の近代文学もすでに古典の域に入りつつある。文字で書かれた文学が音声としてのイメージを再現できないような世代も多くなった。今こそ、音声化しなけれぱ、文語体の文体が「死語」となる危険性がある。その意味で、この作品にはまったく画像を入れずに、黒の背景に文語体の字幕を入れた。そして、いっさいよみがなを入れないことにした。
さて、以上の5作品について、それぞれの印象はちがったものだろう。「蜘蛛の糸」「舞姫」は、それぞれ9分くらい、三大随筆はそれぞれ1、2分のものである。ひととおりお聴きになって、そのちがいを確認してくださるとありがたい。
声による文学作品のよみは情報の伝達ではなく、表現であるという「考え」をもっている。
しかし、古典の場合には、文字の情報も理解のために必要ではないかと考えている。「枕草子」「方丈記」「徒然草52段」の字幕付のよみをYouTubeにアップした。この前にアップした
「蜘蛛の糸」では、文字は最低限にした。声を聞いてただ情報だけを聞かれたくなかったからである。
よみ声に応じて少しずつ文字が表示されるので、耳と目で追いながら聴き手も作品をよむことができる。鑑賞と学習とをかねて、古典を味わうことができるだろうと思う。感想などいただければ幸いである。
●
渡辺知明の表現よみ=「枕草子」(春はあけぼの) ●
渡辺知明の表現よみ=「方丈記」序 ●
渡辺知明の表現よみ=「徒然草」52段 古典の場合には、現代のことばとはズレがある。文字情報だけでは、文字的な意味は伝わるが、文学としてのことばの感情面は伝わらない。だから、字幕をつけても、意味だけを受け取ることはないだろうと思う。
表現よみには画像はいらないというのが、わたしの基本的な考えである。しかし、作品の内容に影響しないような抽象的な画像ならば、作品の内容についてのイメージにとっていい刺激になるのではないかと考えた。
無料で公開されている画像に水彩画風の処理をして、セザンヌのようなイメージにしてみた。タイトルは「
渡辺知明の表現よみ=芥川龍之介「蜘蛛の糸」」である。「渡辺知明、表現よみ、蜘蛛の糸」などで検索できる。