茨木のり子『言の葉さやげ』(1975花神社)という本に、「語られることばとしての詩」という文章がある。詩は「語られることば」であるという考えがタイトルからもわかる。四六判で24ページ、小みだしがつけられている。「土壌について」「詩人による朗読」「俳優による朗読」の三つである。詩人自身による自作朗読と俳優による朗読とを比較して考えたことが書かれている。
それぞれの中から、茨木のり子の詩の「朗読」についての考えを紹介する。これらは散文の作品の朗読にも通じるものであり、わたしの賛成するところである。
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声で表現される作品―「隠されている、深い意味の、啓示」を感受できた時、それを詩と私は感じる方なので、それをすっかり取り落しては、いくら耳に快く、魂を洗われる思いがしても、それでは野鳥の交響曲を聞いたときと大差はないだろう」(54ページ)
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伝統とよみの表現―「明治以後、異質のことばを知ってから、それらの陰々滅々の朗読術は捨て去られたのであろう。詩は活字のなかに閉じこめられてゆき、西洋音楽の力でも借りなければ、なんとしても羽ばたかず、かつての伝統とも、もはや結びつきようもないのである。従って現代の自作詩朗読は、素でしか読みようがなく、殆どがボソボソと呟く型である。」(56ページ)
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活字を越えるよみの表現―「自作詩朗読――語られる言葉としての詩は、まず活字を大きく越えられるのでなければ意味がない。自分の書いたものであっても、詩句は活字から身を起こし、自分の肉声となって伸び、ひろがり、眼からではなく、耳から人々のイメージを喚起できなければ駄目である。」(61ページ)
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詩の表現よみの必要性―「詩朗読にまつわりがちな、変なふしまわしを避けようとするあまり、現在の俳優は素で読むことに全力を傾け、そのためにあまりにも無色透明になりすぎているきらいもある。」(65ページ)
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アクセントと作品の表現―「かつて、私の書いたラジオドラマの本読みに立ちあった時、新劇女優の一人が、アクセント辞典(NHK発行らしい)を持ってきていて、台詞の一つ一つを、アクセント辞典に照らし合わせて点検していた。その真面目さに敬意を払うにやぶさかではなかったが、幾分滑稽な感じがしないでもなかった。アクセントなんかどうだっていい、台詞をパン種に、あなたの中でいきいきとふくらませ、デフォルメする、そのことの方にエネルギーを使ってよと私は言いたかった。」(66ページ)
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発音とよみの美しさ―「鼻濁音一つを取っても、それを美しいと感じる地方と、美しくないと感じる地方があるということであり、鼻に抜ける発音が美しさの金科玉条ではないことを示し、私自身、声楽家などが非常に意識的に「ガ行」の発音をして、これぞ日本語の手本という顔をされると、それこそ鼻白むおもいがする。」(66ページ)
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詩のテンションの高さ―「詩もまた、日常語を使って書かれてはいても、日常感情からは何オクターブも調子の高いものであることは明らかなのだが、その心情のボルテージに見合った表現を、俳優がみつけてくれないくちおしさは、自分の詩を読まれたことのある詩人は、或いは皆一様に持っていることかもしれない。」(70ページ)
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文学作品の専門のよみ手―「歌舞伎や、能の朗誦術が、二次的な会話とは、ふっきれたところで、様式として練られ完成されていったように、詩朗読もまた、そうした様式を持ちうるものだろうか? 持ちうるとすれば、詩人によってか、俳優によってか? 私は後者によってであろうと言うしかない。」
ちなみに、わたしは
Blog表現よみ作品集で、
茨木のり子「六月」をはじめとして、
他の詩も公開しているので、お聴きください。