世間で名作といわれている作品でも、実際に声に出して読み直してみると、いろいろな発見がある。これまで眼で読んで頭で解釈していたことが、いかにも不確かなものになってくるのである。
志賀直哉といえば「城の崎にて」というほど有名であるが、これをおもしろいと感じる人がいるのだろうか。わたしは中学生のころ、教科書の文学年表で知識を得て読んだ記憶がある。しかし面白くなかった。またつい最近、何度目かの読み直しをしてみたがやはりおもしろくはなかった。感動がないのである。なぜだろうか。批評家はどのようにこの作品を読んでいるのだろうか。目で読んで解釈して評価しているのではないか。声に出して読んでみると、心を動かすものがないのである。それでも「名作」と呼ばれているのだ。
この作品が当時、高く評価されたのは時代の趨勢かもしれない。自然主義文学の上昇期にあって、志賀直哉も影響されたということで評価されたのではないだろうか。一九一七年(大正六)五月に『白樺』に発表された作品である。当時、志賀直哉は三十四歳、テーマは「生と死」の問題である。だが、三十四歳の青年がどれだけ問題を深められたのか。
わたしの知る限り、評価はほとんど描写の部分にあてられている。その代表が、谷崎潤一郎『文章読本』である。たとえば、蜂が「ぶーん」と言って飛び立つありさま、鼠が水から這い上がろうと苦しむありさまなど、見事な描写であるとされている。だが、生きることと死ぬこととの中心テーマはどれだけ深められているであろうか。また、すばらしいとされる描写が自然主義的な描写からはたしてどれだけ出ているか。わたしには疑問である。
作品の展開はパターンである。虫たちの描写、それから作者の感想である。ところが、その感想がおもしろくない。わたしには志賀直哉が演えき的に結論を導いているとしか思えない。作中で何度も繰り返される「静か」「寂しい」という形容詞に代表される。これは序にあたる部分ですでに結論として書かれたことばである。
「実は自分もそういうふうに危うかった出来事を感じたかった。そんな気もした。しかし妙に自分の心は静まってしまった。自分の心には、何かしら死に対する親しみが起こっていた。」(『小僧の神様』岩波文庫109ページ)
これが序文の結論である。以下の蜂のエピソード、鼠のエピソード、井守のエピソードなどは、すべてこの結論に導かれるだけである。それ以上に付け加わるものがない。この作品の後半には発見がないのである。しかも、動物の描写のあとで感想を述べるという構成が展開のパターンになっている。学校教育でこの作品を文章の代表としたら、どんな結果が生まれるだろうか。作文によくあるパターンである。具体的な場面を描いたあとで、書き手の感想という多く見られる作文のパターンである。これは大人の「エッセー」にも引き継がれている書き方だ。
わたしは、この作品から感想の部分を削り取って、描写の部分だけを読んでみようかとも考えた。だが、それはうまく行かないだろう。なぜなら描写の部分には作者のモチーフが感じられないからである。描写の部分と感想の部分とが全く別物のように同居しているのだ。まるで自然主義のような描写だ。
それに対してわたしが連想するのは梶井基次郎の描写である。何かに描写の考えを書いていた。見ている自分と描かれているものとは一体化してしまうというのである。そのような自然物との共生感は「城の崎にて」には感じられない。主体としての「自分」と客体としての「生き物たち」とは対極にあるのだ。
何よりも気になるのは、イモリのエピソードで「自分」が次のような感想を抱くところである。「自分」はイモリに石を投げて殺してしまう。そのあとで、次のように考える。
「自分は飛んだ事をしたと思った。虫を殺すことをよくする自分であるが、その気が全くないのに殺してしまったのは自分に妙な嫌な気をさした。もとより自分の仕た事ではあったが如何にも偶然だった。井守にとっては全く不意な死であった。」(『小僧の神様』「城の崎にて」岩波文庫116ページ)
では、「自分」はどんな石を投げたのか。「小鞠ほどの石」である。もし本当に殺す気がなければそれほどの大きな石を投げてみるだろうか。また、自分は「その気が全くない」というだけで、イモリの死に対して責任はないだろうか。しかも、「イモリにとって」とは書いているが、「いかにも偶然だった」と言えるだろうか。また、「イモリにとっては全く不意な死であった」と暢気に考えているのである。ここには作者の「自分」に対する批評はない。
その意味でこの作品はいかにも志賀らしい作品といえるだろう。つまり、自分以外の生命というものに対する同情や共感というものがないのである。本多秋五の言う「原始人」がここでも当てはまる。それに対して、やはり思い浮かぶのは梶井基次郎である。作品「愛撫」の中で「私」は猫の耳を厚紙でサンドイッチのように挟んで切符切りでパチンとやってみたいという思いを述べている。そして、「ひいては「切符切り」の危険にもさらされる」と書くのであるが、そこにはそう考える「私」に対する批評がある。だから、そこにユーモアが感じられるのである。ところが志賀直哉の「城の崎にて」には、どこにもユーモアはないのである。
だが、あらためてこれは三十四歳の志賀直哉が書いた作品だと考えてみよう。わたしだって三十四歳から二十年は立っているから、三十四歳の志賀直哉も若く見える。その後に志賀直哉が書いた作品を見たらどうか。例えば「兎」の兎たちはどう描かれているだろうか。次のような描写である。そこには「城の崎にて」にはなかった生物たちとの共生感がみごとに描きだされている。
「台の隅に小さな函を横に置いてやると、飛行機の音にも尾長の啼声にも一々驚いて、その函の中に逃げこんだ。鼻の先を始ピクピク終動かしているが、結局、耳が頼りらしく、遠くで犬の鳴声などすると直ぐ耳を立て、鼻のピクピクを止め、疑っとして了う。時には後足だけで立ち、耳を前に、背後に向けている事がある。日向に寝そべっていて、無精たらしく片耳だけ立てたりすることもある。」(『灰色の月・万暦赤絵』新潮文庫137ページ)
これは志賀直哉六十三歳の作品である。三十年間の人間生活は志賀直哉をたしかに発展させた。それなのに、いつまでも「城の崎にて」の作家にしておく常識というものに、わたしは不満である。(ほかにも、猫について志賀直哉が書いた作品があったような気がするのであるが、今見つけることはできない。)