政治家の話し方には関心を持っている。政治の場で、政治家が何を語るかは問題にされるが、話し方そのものが的確に批評されることは少ない。朗読の評価と同じで、話し方が語る内容にまでに影響するとは考えないからであろう。あることを言ったかどうかが、そのことばを口にしたかどうかが、アリバイのように語られることさえ少なくない。
きのうテレビで今回の衆院選の政党演説を見た。三党の代表が順に語った。毎回、選挙があるたびに、日本の話し方の文化を代表するものとして興味深く聞いている。政策などの内容を抜きにして、話し方からどれだけ聴き手をとらえるかが、毎回、選挙の結果にも観られるのがおもしろい。選挙中だから、投票に影響を与えないようなかたちで、その話し方を純粋に評価してみよう。
A党の代表は目線が気になった。カメラ目線よりも上目づかいで遠方を眺めている。明らかに書かれた文章を見ているのだ。話し方というよりも、書かれた文章を読み上げている口調が最後まで気になった。聴き手にとっては、文章に書かれた政策をよみあげる政党であるという印象が残る。つまり、決まり切った政策や方針にしたがって行動する態度が表現されていた。
B党の代表は語ることばのひとことひとことの発音が不明瞭である。疲れた人が呂律が回らずに話しているか、あるいはアルコールが入っているのだろうかと不安になる。原稿を読んでいるのではないが、不明瞭なことばで語られる政策をいったいどこまで実行するのか不安な印象をあたえる。後半で登場して、二人ならんだ語る女性議員のことばも早口で間がない。ことばが上滑りするので内容に引きつける力がない。
A党もB党も演説の後半で女性がひとり登場する。二人ならんで、カメラに向かって語るのだが、お互いのコトバのやりとりが食い違っている。もちろん、文字にしたことばはやりとりになっているのだが、声の響きのうえでは対話になっていないのだ。しかも、それが聴き手に届くような説得力がない。
C党の代表はゆっくりと語る。主張すべき論点が明確に打ち出されている。聞きたくなくても、部分部分のコトバが耳に入ってくる。それは一語一語のアクセントに強弱があり、強調すべきことばに明確なイントネーションがかかっているからだ。この人ほどメリハリのある語りかたのある政治家は今の政界にはほとんどいない。かつて、政治の舞台にはこのくらいの話し方をする議員は各党にも見られた。
政治家の仕事でもっとも重要なのが話しの力である。ほとんどの時間が、人を相手に話すことに費やされているのだろう。それは政治家の武器である。ところが、それを磨き上げている政治家がじつに少ないのだ。今の日本で問題になっているのは、政治家をはじめとして多くの国民のコトバの力が衰えていることだ。政治家が語る政策も話し方や書き方を抜きにしては国民には伝わらないのである。作家の武田泰淳はかつて『政治家の文章』(岩波新書)という名著を書いた。「政治」への根本的な批評になっていたと記憶している。今では、文章よりも「政治家の話し方」が批評にされるべきだろう。