内田樹さんが「論争はしない」と宣言していることになるほどと思います。これまでも、わたしは「論争」にはこりごりしていました。例えば、2002年の
こんな事件です。ほんとにめんどうなことです。
今回も残念な結果になってしまいました。他人から見れば水掛け論です。なんら論争にも何にもなっていない理論的にも意義のないやりとりですが、日本の思想に関心ある方には、この日本的なやりとりが反面教師として参考になると思います。
140字のTwitterで書いた感想について、その内容にとどまらず、わたしの人格の批評までしてくださいました。文字づらの論争のことばの激しさから、わたしのことが誤解されたら困るので説明責任として、この記事を残しておきます。東百道さんも自らのブログのコメントで
打ち切り宣言をしましたので、わたしもこれで打ち切りです。
ちなみに、この記事は、東氏のブログへのコメントとしてでなく、わたし自身のブログに書いて保存することにします。そのほうが、東氏の誇りを傷つけることが少ないだろうと思うからです。こんな文章を書くのは、正直言って、面倒なことで、何ら朗読の理論にとっても実践にとっても意味のないことです。
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わたしが聞いたのは、6月28日(土)調布市で開催された「東百道・講演と朗読の会」である。当日、東氏は、前半に講演、後半に「黄金風景」と「高瀬舟」の2作品の朗読をした。朗読についての感想は、2作品に共通するものだが、「黄金風景」の朗読は前半の解説を実践したものと受け止めている。
まず、2013年6月30日に、わたしは Twitter に下記のような感想を書いた。前半は東氏の理論の理解のしかた、後半は2作品の朗読についての感想である。
●「東百道氏の講演と朗読を聴いた。作品を作者の言葉と解釈して、黙読でのイメージを朗読に直結させる理論だ。作者の伝記からの作品解釈に重点がある。実際の朗読にも理論に欠ける点がそのまま出た。問題点を列挙する。姿勢、発声、アクセント、イントネーション、プロミネンス、語り構造、語り口と感情」
これに対して、東氏は「他人への論評は逆に当人の足元を露(あらわ)にする」という積極的な意気込みのあるタイトルをつけて、前半・後半と2回、反論の記事を書いた。(内容に関心ある方は、下記のサイトを参照。お互いのコメントも書かれている)
前半
http://nipponroudokukan.txt-nifty.com/blog/2013/07/post-866c.html
後半
http://nipponroudokukan.txt-nifty.com/blog/2013/07/post-a08d.html
わたしは今回のTwitterの内容について、東氏からどういう意味なのか問われたものとして、より詳しく書いておくことにした。理論についての論争などではない。あくまで朗読から感じた理論の感想である。感想の正確さ確認するために、実際の朗読「黄金風景」と「高瀬舟」の録音の公開をお願いしたが、公開の意志はないということなので聞き直さないまま書かざるをえない。ただし、基本的な評価に変化はない。また、わたしが批評の根拠とする理論を示せというので、拙著『朗読の教科書』の参照ページを加えた。
●「東百道氏の講演と朗読を聴いた。(1)作品を作者の言葉と解釈して、黙読でのイメージを朗読に直結させる理論だ。(2)作者の伝記からの作品解釈に重点がある。(3)実際の朗読にも理論に欠ける点がそのまま出た。問題点を列挙する。(4)姿勢、(5)発声、(6)アクセント、(7)イントネーション、(8)プロミネンス、(9)語り構造、(10)語り口と感情」
(1)作品を作者の言葉と解釈して、黙読でのイメージを朗読に直結させる理論だ。――作品全体が、作者の書いたものとして読むから、原稿を読み上げることになる。せっかくのイメージの分析が生かされない。そもそも「イメージ」の概念がアイマイなのだ。つまり、読み手が作品を分析してイメージしたイメージが、どのようにして聞き手のイメージとなるのか、そのイメージはどんなかたちで伝わるのか、根本的な検討が必要なのだ。つまり、イメージの媒介としての音声言語の理論がないから、イメージが朗読の実践に「直結」させられる。『朗読の教科書』310ページ
(2)作者の伝記からの作品解釈に重点がある。――「黄金風景」の内容をすべて作者=太宰治の経験的な事実に置き換えて作品を解釈している。作品そのものの構造、とくに作者と人物との距離の分析が欠けている。つまり、文学作品の基本構造についての考えがない。『朗読の教科書』277ページ
(3)実際の朗読にも理論に欠ける点がそのまま出た。問題点を列挙する。――朗読の理論とは、いい朗読をするための理論であろう。理論で語ることを実際の朗読にどう生かすかという実践として評価される。朗読には不可欠な音声表現の基礎である(4)(5)(6)(7)(8)の表現理論がない。身体運動と観念が音声言語を媒介にして結びつくことが朗読の本質なのである。『朗読の教科書』第2章姿勢・発声・発音、第3章リズムある朗読の仕方
(4)姿勢、――朗読が声による表現であるなら、文字の言語の解釈ではなく声が問題だ。姿勢からつくる必要がある。だが、イスに腰かけて、足を前に投げ出し、背を丸めて、マイクに声を乗せるするような姿勢では声が出なくなる。むしろ、東氏の講演のときの発声法のほうがよかった。『朗読の教科書』36ページ
(5)発声、――(4)の結果として、声がでていない。声に強さがない。息がコントロールされていない。あの会場ならば、マイクなしでも表現できる声が必要である。『朗読の教科書』47ページ
(6)アクセント、――一言一言のことばにリズムもメリハリも感じられないのは、アクセントによることばの意味の明確化に関心がないようだ。また、アクセントが高低か強弱かという理念もないようだ。『朗読の教科書』90ページ
(7)イントネーション、――文の単位では、主部・述部も、修飾語と被修飾語の関係も、抑揚として表現されていないから、全体が単調になって眠くなる。実際に眠っている人を数人見かけた。『朗読の教科書』153ページ
(8)プロミネンス、――「黄金風景」で作者の考え方についての解説があったが、実際のよみでは、何れかの語句や文が強調されて、作品の展開の伏線になるはずであるが、ほとんどなかった。『朗読の教科書』255ページ
(9)語り構造、――全体の印象は、文学作品の表現ではなく、書かれた作品の「文章」を読み上げている感じである。というのは、作品は作者が書いた文章であるということから脱しないからだ。「語り手」が自らの思いを語り、登場人物の思いも語るということになれば、作品の立体的な表現になるだろう。『朗読の教科書』277ページ
(10)語り口と感情――作品の書き出しから作品の展開において、「語り手」の感情は揺れ動いて、変化していくものである。その感情の変化を「語り口」というわけである。日常の話し方で作品を読んでも作品が、「語り手」によって語られるという表現はできないのである。『朗読の教科書』314ページ
以上
【追記】
わたしは打ち切りましたが、東百道さんが追加を書いていますので紹介します。関心ある方はお読みください。画像(2002/9/7)は「その4」の参考資料です。2002/9/7第2回渡辺知明独演会の録音が聴けるようにリンクしました。(2013/08/10)
降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その1)(2013/07/23)
降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その2)(2013/07/25)
降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その3)(2013/07/27)
降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その4)(2013/08/02)
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2002/9/7第2回渡辺知明表現よみ独演会
降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その5最終回)(2013/08/05)
降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その6追加)(2013/08/10)
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朗読と文のイントネーションの原理(1)
朗読と文のイントネーションの原理(2)