「表現よみと朗読とはちがうのですか?」とよく聞かれる。また、表現よみと朗読とのちがいがなかなかわからないという人もいる。そんなとき、わたしは「いい朗読が表現よみです」と答えている。
もともと「
朗読」ということばは、文学作品などを声に出して鑑賞したり、人に聞かせるという意味であった。今でも、その意味で「朗読」ということばを使う人もいる。しかし、最近の「朗読」は「音読」に近い意味で使われるようになった。 「音読」とは文字どおり文章を声に出すことである。声さえ出ていれば音読なのである。そして、声を出さないのが「黙読」である。
「
表現よみ」とは、昭和30年代に
日本コトバの会が初めて使ったことばである。当時の指導者の大久保忠利が、その後、表現よみの理論を築いていった。表現よみの理論の動機は、当時の朗読がいかにも人に聞かせるようなよみになることへの批判であった。作品の内容が聞き手に浮かび上がるのではなく、聞かせようとする態度が目立った。それを大久保は「押しつけよみ」と呼んだ。
それに対して表現よみが主張したのは「
聞き手ゼロ」という態度だった。聞き手に伝えようとする態度は、テキストの文字を音声にすることに努力する。そうなると、よみ手自身が作品を理解し表現することができなくなる。それで、いったんは聞き手への意識を外して、よみ手が作品の内容に集中しながらよむのである。大久保は、日本語によるオーラル・インタープリテーションであると語った。
その結果として、表現よみのよみは、作品の文字を声にして伝えるものではなくなった。よみは作品を声で表現するものとなった。そうなると、作品の文字ではなく作品の内容をどう表現するかということになる。その手がかりが作品の「
語り口」である。作品のよみにおいては、よみ手は「
語り手」に同化することになる。
よみ手が「語り手」となって語るのが表現よみである。それに対して、「朗読」は作品の文字をよみあげているように聞こえる。「音訳(音声訳)」は、「文字を声にして伝える」という原理どおり、「朗読」よりももっと文字をよみあげる傾向が強い。
朗読ではない生きた表現をめざすつもりで「語り」ということばを使う人たちもいる。また、テキストを持つのが「朗読」で、持たないのが「語り」だと区別する人たちもいる。しかし、その区別は表面的なものである。本質的なことは、そのよみが作品の「語り手」の表現となっているか、ただ文字づらを読んでいるかのちがいなのである。いい朗読では、よみ手が「語り手」と同化しているので、まるでよみ手が語っているように聞こえるのである。