わたしは最近、若い人たちの好きな作品を意識的に表現よみしてアップしている。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を代表とする作品や
太宰治「
走れメロス」などである。若い人たちが、そんな作品をどのように聴くのかと考えたら、ほとんどの人たちが移動中に聴くのではないかと思えた。
近ごろ盛んなのは、携帯デジタルプレイヤーである。小型の装置のなかに数百曲の単位で録音できるのである。ただし、それは音楽の場合であってクラシックでなければ、一曲が3分くらいだろう。携帯のプレイヤーは何も音楽を聴くだけではない。文学作品の朗読だって聴けるのだ。音楽の代わりに朗読作品を入れて持ち歩けばいいのである。
ただし、朗読の場合には問題が二つある。一つは、文学作品には3分などというものは少ない。例外として、今、わたしが録音して推薦しているのが、
川崎大治『日本のとんち話』に代表される短い話である。ほかに、『日本のわらい話』『日本のふしぎ話』『日本のおばけ話』のシリーズになっている。
ならば、3分ずつに区切ってみたらどうかと考えられる。だが、「朗読」では次の問題がおこる。それは、「朗読」はテンションの低いよみである。長時間かけて話のすじを聴くにはまあいいのだが、たった3分ではおもしろみが少なくなるし飽きてくるのだ。
そこで、
表現よみの登場である。表現よみは文学作品をいわば詩的な表現で、部分部分のイメージを重視してよむものである。だから、ある部分を聴いても、その部分のことばのイメージの喚起力を十分に発揮できる。どこを切り取って聴いてもらってもいいのだ。一例として、わたしの
「走れメロス」を聴いていただきたい。
断片的に聴いてもらってもいい作品として、「銀河鉄道の夜」を考えている。もともと未完成の原稿であり、構成も完璧でない作品である。それを逆手にとって、3分くらいの断片にしてみたらどうか。そうして、アットランダムに再生して聴くのである。そのときのよみは、表現よみでなければならない。
若い人たちが数百曲の録音を持ち歩き、しかもシャッフルして聴いている時代である。断片で聴いても詩的なことばの響きとイメージを失うことのない「銀河鉄道の夜」というものもおもしろいのでないか。渡辺知明の表現よみ
「銀河鉄道の夜」シリーズは連続アップ中!