わたしは小学校三、四年のころ、「蜘蛛の糸」の紙芝居を見たことがある。担任の先生が何かの都合で休んだのだ。雨の日だった。ほかのクラスの先生が交替で授業をしてくれた。ある先生が「蜘蛛の糸」の紙芝居をしてくれた。わたしはひどいショックを受けた。恐怖にふるえあがってしまい、級友たちに知られないように隠すのがつらかった。今になってみると、どんな恐怖なのか思い出せないが、恐怖を感じたことだけははっきり記憶している。
おとなになってから原作を読んだとき、「蜘蛛の糸」が、仏教の教えを説くための説教だとわかった。そして、その胡散臭さも感じられた。また、それが芥川龍之介がみずからに課している仏教の教訓のようにも感じられた。しかし、子どものときに、わたし自身の感じた恐怖の思いは消えることがない。
「蜘蛛の糸」は朗読の定番としてよく取り上げられる。しかし、説経節のかたちを借りた物語であり、地獄の恐ろしさを民衆に教え込もうとしする作品だとわかっているのだろうか。たいていの人が「ある日のことでございます……」と柔らかな優しい声で読んでいる。しかし、それを聴いている感性豊かな子どもたちが、地獄の恐怖を味わうかもしれないとは思わないのだろうか。
わたしの表現よみする
「蜘蛛の糸」は、「語り手」の説教師が地獄の恐ろしさを語る胡散臭さを表現したつもりであるが、わたしのトラウマを消し去るためには、まだまだ表現が不足しているかも知れない。